林美和「海軍軍事普及部の広報活動に関する一考察 -海軍省パンフレットを中心に-」『呉市海事歴史科学館研究紀要』第6号、2012年、60-71頁

  • 概要
    • 1914年のシーメンス事件により海軍に対して国民の不信感が募ったため、国民の海軍離れを防ぐべく、国民に身近な存在として通俗的なアピールをする必要に迫られた。そこで海軍軍拡のための国民的組織として1917年に設立されたのが海軍協会であった。だがその前に軍拡の見通しが立ったので(1916年度予算で長門、1917年度予算で陸奥・加賀・土佐・天城・赤城の経費が帝国議会を通過)、国民的組織化路線は変更される。
    • 1922年、ワシントン軍縮により世論対策が軍拡から軍縮へと変化した。軍縮の不当性を世論に訴える必要があった。それ故、海軍軍事普及委員会を設立することとなった。だがこの普及委員会時代は世論誘導の側面は少なく、通俗的な海軍理解を目指すものであった。
    • 転機となるのが1930年のロンドン軍縮条約。ここからプロパガンダ政策が積極的に行われるようになり世論誘導が目指された。そのために海軍軍事普及委員会は海軍軍事普及部となり、国民世論を味方につけるため様々な方策が取られる。本論文では海軍省パンフレットの分析が行われる。海軍省パンフレットは専門性が高かったので一般国民を誘導するほどの理解度は得られなかったとし、海軍は国民との距離感を埋めることに長けていなかったと評価できると結論づけている。

【menu】

はじめに

  • 本稿の目的
    • 海軍省海軍軍事普及部発行パンフレットの収集状況とその内容、及び海軍省海軍軍事普及部の任務について論じること。

  • 先行研究批判
    • 土田宏成「1930年代における海軍の宣伝と国民的組織整備構想」『国立歴史民俗博物館研究報告第126集 近代日本の兵士に関する諸問題の研究』2006年
      • 【要旨】土田氏は海軍協会を中心に分析をすすめ「海軍の宣伝が陸軍に及ばなかった最大の原因は、海軍の国民的基盤の弱さに求められる」と述べ、その根拠を「在郷軍人会組織が事実上の陸軍支持組織であったため」としている。
      • 【批判】土田氏は海軍は陸軍の後手に回るというイメージを踏襲しているが、ロンドン軍縮を乗り越える為にメディアを巧みに利用し実践的なプロパガンダ政策を行ったのは海軍。

一 海軍省海軍軍事普及部の設置経緯

組織概要

  • 海軍省海軍軍事普及員会とは
    • 設置
      • ワシントン軍縮条約の翌年の1923年に設置。
    • 目的
      • 日本海軍が軍縮期に立ち向かうための民衆世論を味方につける使命を背負う。
      • 大正デモクラシー期の反軍的世論の中で、海軍が如何にして国民に受容され、支持を得ていくのかが主たる課題。
    • 組織
      • 専任の長を置かずに軍務局長が委員長を兼任

  • 海軍省海軍軍事普及部とは
    • 再編
      • 1932年に海軍軍事普及委員会が再編。
    • 組織
      • 専任の委員長を置き、その下には委員が配置される。
      • 官制外の組織として設置
    • 機能
      • 軍事に関する普及活動事務を担当する部署として機能
    • 大本営設置後
      • 1937年11月の大本営設置後は、大本営海軍報道部長が海軍軍事普部委員長を併任。
    • 廃止
      • 1940年12月6日に情報局の設置と共に廃止される。

設置経緯

  • シーメンス事件による民衆の海軍離れ
    • 1914年、外国からの艦船購入をめぐる海軍の汚職事件として大々的に報道されたシーメンス事件→海軍に対する民衆の支持離れに拍車をかける。軍部に対する民衆の信頼感を失墜させる。
    • 軍部は危機感を募らせ、国民と軍隊との距離感をなくそうと画策。海軍は自らの組織を「国民と身近な存在」としてアピールしたいと考え国民の海軍に対する理解度を上げるため、みずからを「通俗的」にアピールしようと動き出す。

  • 海軍協会
    • 概要
      • 1917年に設立。海軍直属の団体ではなく、あくまでも海軍を支持する民間団体として位置づけられていた。
    • 海軍の路線変更
      • 土田宏成氏の指摘→「海軍軍拡運動を強力に推進するため、国民的組織することが目指されていたものの、設立前に軍拡実現の見通しがついてしまい(※レジュメ作成者註-1916年度予算で長門、1917年度予算で陸奥・加賀・土佐・天城・赤城の経費が帝国議会を通過)、その必要性が薄れたこと、また海軍当局も組織の巨大化によって協会へのコントロールが効かなくなることを懸念したことにより国民的組織化路線は否定された」

  • 軍拡から軍縮
    • ワシントン軍縮で海軍が軍縮問題に直面することとなり、世論対策の方向性が軍拡から軍縮へとシフト→海軍軍事普及員会の設置

  • 海軍軍事普及委員会設置の趣旨 (「海軍軍事普及委員会組織ノ件 大正13年4月12日」、海軍省編『海軍制度沿革 巻二』原書房、1971年)
    • 「軍隊ト国民トノ契合ハ倍々緊密ヲ要スルモノニアルニ拘ラス現情二於ケル一般国民ノ海軍に関スル智識ハ極メテ幼稚ニシテ遺憾ノ点アルニ付テハ広ク海軍軍事智識ヲ通俗的ニ紹介シ以テ一般国民ノ海軍二対スル諒解及後援ヲ助長シ延テハ優良ナル海軍志願者ヲ増加スル等直接間接二海軍ノ向上発達二資セシムル為此ノ際左記二拠リ海軍省内二首題委員会ヲ設置セラルルコトトス」

  • 海軍軍事普及委員会規定 (「海軍軍事普及委員会規定 大正13年5月23日」、海軍省編『海軍制度沿革 巻二』原書房、1971年)
    • 目的→「部外二対スル海軍軍事組織ノ普及ヲ図ル為海軍省内二海軍軍事普及委員会ヲ置ク」
    • 業務内容→「第一條 軍事普及委員会ハ左記事項二関スル研究調査及立案ヲ掌ル」
      • 一 宣伝用冊子類ノ作製配布
      • 二 軍事講演ノ計画及之カ資料ノ整備、供給
      • 三 活動写真ノ利用
      • 四 民間ニ於ケル各種刊行物ノ利用
      • 五 部外二於ケル公私団体等ノ誘導、利用
      • 六 部外海軍見学者ノ案内
    • 林氏の評価
      • 活動の性格としては思想誘導という色は薄く、海軍の存在意義や必要性を国民にわかりやすく広報することを主軸としている
      • 軍縮論を一辺倒に展開するのではなく、その素地づくりとして、海軍を通俗的に理解してもらえるように意識をはらっていた

  • ロンドン軍縮による転換
    • 海軍によるマスメディアの扇動や怪文書の横行といった戦争プロパガンダに関する政策が実施される契機となる。
    • 海軍省および海軍軍令部を中心に、軍縮世論の操作に積極的に関与していた。
    • 1930年9月3日、海軍軍令部が部内限で作成したパンフレット「米国海軍ノ戦備」を皮切りに、海軍は軍縮批判のための言論を展開していく
    • 1932年に設置される海軍軍事普及部には、ロンドン軍縮に強固に反対していた加藤寛治海軍軍令部長の思想的影響が色濃く表れる。

  • 海軍軍事普及部規定 (「海軍軍事普及部規定 昭和7年10月1日」、海軍省編『海軍制度沿革 巻二』原書房、1971年)
    • 目的 →「第一條 海軍軍事二関スル宣伝普及ヲ図ル為海軍省内二海軍軍事普及部ヲ置ク」
    • 業務内容 →「第二條 海軍軍事普及部ハ軍事宣伝、普及二関スル左ノ事項ノ研究、調査及立案ヲ掌ル」
      • 一 海軍二対スル内外世論ノ指導及宣伝二関スル計画
      • 二 内外二対スル所要情報ノ発表並二通報二関スル事項
      • 三 宣伝及普及二関スル各方面トノ連絡二関スル事項
      • 四 諜報及宣伝ノ防衛二関スル事項
      • 五 内外新聞、雑誌及写真ノ検閲二関スル事項
      • 六 部外二発表セントスル諸原稿二関スル事項
      • 七 一般軍事普及二関スル計画
      • 八 宣伝用図書類ノ作製及配布二関スル事項
      • 九 部外海軍見学者其ノ他ノ指導二関スル事項
    • 林氏の評価
      • 日本海軍に対する国際・国内世論の指導統制、および情報戦や諜報活動も視野に入れた内容が追加されたこの規定には、総力戦体制の強固な構築に向けたプロパガンダ対策を、海軍が重く受け止めていたことが理解できる。

二 海軍協会・海軍有終会との連関性

  • 海軍関連組織
    • 海軍協会…上述参照。1917年に設立された海軍を支持する民間団体。機関紙は『海之日本』。
    • 海軍有終会…財団法人という位置づけで1913年に設立。退役した海軍軍人が海軍をめぐる世界情勢や政治的動向を知る役割を担う。機関紙は『有終』

  • 海軍軍事普及部の海軍協会・海軍有終会の利用
    • 1933年から「宣伝普及ノ為従来二比シ一層海軍協会及有終会を利用スルコトトセラレタル」(「宣伝普及二関シ海軍協会及有終会利用ノ件」、海軍省編『海軍制度沿革 巻二』原書房、1971年)
    • 海軍軍事普及部(ないし海軍軍事普及委員会)設立以前より、海軍の広報基盤を築いてきたのは海軍協会と海軍有終会。
    • 既存の広報体系を踏襲・活用する形で海軍軍事普及部の設立により、海軍省が広報体系の中心に関与できるようになる。

三 関根郡平大佐と海軍省パンフレット

  • 海軍人事普及部の人材
    • 海軍軍事普及部には海軍のスポークスマン的存在の人物が所属し、高い英語力が必要とされた。
    • 特に中心的な人物が関根郡平大佐。
    • 海軍省パンフレットにおける関根の言説を紹介することで、軍縮期の海軍がプロパガンダ政策を通じて、政府・政党や国民世論に対して何を訴え、どのような政治的思惑を抱いていたのかをみる。

  • 海軍省パンフレットとは
    • 軍縮問題に対峙するための思想誘導の一環として作成されており、海軍軍事普及部に改編されてからは、関根を中心とした委員が執筆
    • 外交および対外問題を重視しており、国民精神の先導(ママ)を企図した内容は薄い

  • 関根の言説の分析
    • 関根の文章を4つ紹介
      • 『国防画報 海軍篇』(1931年12月)、『帝国の国防と海軍 海洋力の影響』(1932年10月)、『海軍々備縮小に関する帝国政府の新提案に就いて』(1932年12月)、『帝国の連盟脱退と国際情勢』(1933年5月)
    • 林氏の評価
      • 関根の言説には一貫して対外平等性への訴えが存在している。海軍は自国をめぐる世界情勢を客観的かつ現実的に受け止めていることが窺い知れる。
      • 海軍省パンフレットの内容は専門性が高いことから、一般国民を思想誘導するほどの理解度は得られなかった。

おわりに

  • 1930年代のプロパガンダ
    • 1930年代の特徴として、ロシア・ドイツの影響を受けた軍部が、プロパガンダの重要性を強く認識していた。戦争プロパガンダを巧みに行い、国民を戦争支持へと扇動することで、軍部は政治的影響力を増幅させていく。
    • 海軍は海軍軍事普及部の設置とともに、プロパガンダ政策の強化を図るが、その積極性とは裏腹に、国民の目線に立った言説を展開することができず、結果として陸軍の後手に回らざるを得なかった
    • 陸軍と比べて海軍は国民との距離感を埋めることに長けていなかったと評価できる

  • ロンドン軍縮の重要性
    • ロンドン海軍軍縮条約がおよぼした政治的波紋はかなり大きく、軍部の暴走化、政党政治の衰退の引き金の一つにもなった。そのことに加えて満洲事変の勃発という複合的な要因が作用することで、軍部が急速に台頭し、政治介入をすることが可能になった。