坂口太助「戦間期における日本海軍の宣伝活動」(『史叢』94、2016年、21-36頁)

  • 概要
    • この論文の意義は海軍軍事普及委員会が海軍軍事普及部へと改組された要因の分析にある。ロンドン軍縮は前提としたうえで、満州事変・上海事変を契機に海軍における宣伝活動が本格化したことを実証している。そして朝日新聞を事例に軍事普及部の宣伝活動の具体例を紹介しながら、そのノウハウが軍事普及部が廃止(発展的解消)された後も情報局・大本営海軍報道部へ継承されたとする。ノウハウの継承部分については分析が不充分であり、具体的な史料的根拠が示されているわけではない。

はじめに

  • 本稿の趣旨
    • 第一次世界大戦終結から日中戦争勃発頃までの期間(戦間期)を対象に、海軍の宣伝機関である軍事普及委員会(普及部)に注目して、ラジオを含めた海軍の宣伝活動という問題について検討する。

  • 使用史料
    • 『水交社記事』
      • 海軍士官の親睦・研鑽団体「水交社」刊行の機関誌。創刊は1890年。前身の『海軍雑誌』は1883年創刊。終刊は1944年。内容は現役の海軍軍人の知識・能力向上に資するもの(技術・戦訓に関するもの、外国文献の紹介・翻訳等)が中心。
    • 『有終』
      • 海軍の予備役・後備役士官の親睦団体である「有終会」刊行の機関誌。創刊は1913年、終刊は1945年。内容は回想や時事問題に関する論考。雑多な幅広い記事が特徴。
    • 『海軍要覧』
      • 有終会が「一般世人」に対する海軍・海事関係の「知識啓発」を目的の一つとして刊行。1918年に『海事参考年鑑』として創刊、『海軍及海事要覧』、『海軍要覧』と書名を変更しながら概ね2年に1冊の割合で1944年まで刊行。
    • 機密文書
      • 田中宏巳・影山好一郎監修『昭和6・7年事変海軍戦史』緑蔭書房

1.海軍の雑誌・年鑑にみる宣伝活動への認識・関心

  • 海軍軍事普及委員会とラジオ放送の関係性
    • 海軍軍事普及委員会は1924年5月に設置された。日本のラジオ放送の開始はこの翌年の1925年。軍事普及委員会設置とラジオ放送開始は近接しているが、新しく登場したラジオの活用する議論はまだ登場していなかった。

  • 海軍軍事普及部と宣伝
    • 1932年10月、「海軍軍事普及部」へ改組。この頃から刊行物に「宣伝」に注目した論考・記事が見られるようになる。
      • 海軍主計大尉 福泉貞一「支那の米国に於ける逆宣伝」(『水交社記事』昭和7年6月号)→満州事変において巧妙に行われた中国の列国に対する対日逆宣伝を参考とするべく中国の英字新聞「チャイナプレス」の「対日悪宣伝」記事を翻訳して掲載。
      • 海軍主計大佐 河西金重郎「海軍の宣伝を論ず」(『有終』昭和7年10月号)→海軍も特に「一般民衆」に向けた宣伝を「平易にして普通に、然かも強烈なる意気」をもって行うべきと主張。
      • 昭和8年版 海軍要覧』→「太平洋問題の解決」、「帝国の海軍政策」など海軍の政治的主張ともいえる内容を掲げた章が設置される。後者には「帝国の存立上直面せる脅威」「帝国としての防衛策」といったこれまでとは異質ともいえる節が登場。中国の排日運動や諸外国による日本への悪宣伝・誤解が1933年当時における重大な「脅威」であるとの認識を示し、その「防衛策」として国内世論の一致・国際社会に向けての説明の重要性を指摘している。

  • 1932年頃に海軍が宣伝の重要性を強調し始めた契機は何か?
    • 1930年4月に調印されたロンドン軍縮への不満、次期軍縮会議への対策といった問題が宣伝への関心を増大させる要因となったことは間違いない。
    • 軍事普及部への改組が1932年10月であったこと、『海軍要覧』がロンドン軍縮の直近の号ではなく昭和8年版から宣伝の重要性を強調すること、その内容が国際的な問題に重きを置いていることから、宣伝の重要性を強く認識させる何らかの国際的な出来事がロンドン条約の後にあったとも考えられる。
    • 1932年1月28日の第一次上海事変の勃発、同年9月18日の満州事変。これらの事変において日本は国際社会から理解を得られず1933年3月には国際連盟脱退通告へ至る。海軍が宣伝を重視・強調する契機として満州事変が浮上してくる。

2.機密文書にみる満洲事変における宣伝活動

  • 第一次上海事変を中心に海軍が満州事変を総括した公的な戦史『昭和6・7年事変海軍戦史』
    • 全11巻のうち『戦紀』の『巻二』の「第11篇 宣伝」に「第1章 我ガ海軍ノ対外宣伝」「第2章 我ガ海軍ノ対内宣伝」「第3章 支那ノ対外宣伝」の3章からなる宣伝のみに注目した篇がある。この戦史における満州事変勃発時の海軍の宣伝状況→海軍には宣伝を専門に担う部署がなく、大臣官房(海軍省副官)が本来の「職務ノ傍」に宣伝を担当していた。

  • 軍事普及委員会は何をしていたのか
    • 大正期(軍事普及委員会設置)から昭和初期(満州事変勃発)まで、海軍のいう「宣伝」とは主に新聞を利用し「海軍大臣談」等の形式で主張・見解を公表するというものであり、関連する実務は海軍大臣官房が担当し、普及委員会は「案画ノ機関」との位置づけであった。
    • 満州事変勃発の前年の1930年に発行したパンフレットはわずか4冊であり、「実行機関」としての性格は弱いものであった。

  • 満州事変を契機とする普及委員会の本格的な活動開始
    • 「対新聞社以外ノ業務ハ、軍事普及委員会ヲ除キ何レノ部局モ之ニ当ルベキモノガナカ」ったため、同委員会が「宣伝用冊子ノ作製及配布・講話資料ノ整備及講話ノ実施・活動写真・民間刊行物ノ利用・博覧会・展覧会ノ利用及「ラヂオ」放送等」を幅広く担当することとなった。
    • 上海事変満州事変勃発を受け、軍事普及委員会のもとでラジオ等のいっそうの活用が図られるようになり、昭和7年中に海軍で行った「ラヂオ」放送回数は28回であった。

  • 中国の宣伝政策の影響
    • 体制不充分であった海軍に比べ中国側の活発な宣伝の展開、日本に不利な国際世論の形成は海軍に宣伝の重要性を改めて認識させる大きな要因となった。

3.海軍軍事普及部の設置とその宣伝活動

  • 『昭和6・7年事変海軍戦史 第二巻 戦紀巻二』に見る海軍軍事普及部への改組理由
    • 「新聞社ニ対シテハ大臣官房、新聞以外ニ対シテハ軍事普及〔委員〕会ト宣伝業務二分セル為、実施上困難少ナカラズ、事変中、宣伝機関創設ノ議起リ、昭和7年10月ニ至リ軍事普及委員会規定ノ改正」が行われ、軍事普及部が設置されるに至った」(874~878頁)

  • 『東京朝日新聞』に見る「実行機関」としての海軍軍事普及部
    • ①ラジオに関するもの
      • 1934年1月28日付朝刊10面:「ラヂオ・ドラマ「風雲の上海」の作者、海軍少佐酒井慶三氏は〔中略〕海軍軍事普及部員である」との記事。→普及部は上海事変勃発2周年を記念してのラジオ放送に関わっていることが見て取れる。
      • 1936年10月21日付朝刊7面:観艦式のラジオ中継に関する記事中に「御召艦御出港の御模様、続いて御進航中に海軍省軍事普及部梅崎中佐が当日の説明を放送」との記述。→観艦式の際に軍事普及部がラジオで説明放送を行っていることが分かる。
    • ②新聞対応に関するもの
      • 1934年9月14日付朝刊2面:「軍縮問題概観」。野田清軍事普及部委員長による軍縮問題について解説記事。
    • ③パンフレットに関するもの
      • 1936年2月26日付朝刊2面:「海軍省軍事普及部では『海軍軍縮協定不成立と我国民の覚悟』なるパンフレットを作成、廿六日全国各方面に配布した」との記事。
    • ④代表窓口機能
      • 1934年9月11日付夕刊1面:「外務省では、国民に対し我が軍縮方針の妥当公正なる知識を供給し、軍縮会議を成功に導くため諸工作を遂行する必要から〔中略〕海軍省の野田軍司普及部委員長と協議を重ね、又陸軍当局とも打合わせた結果、週1回海軍軍縮問題を中心とする外務、海軍、陸軍3省の情報委員会を開催」。

  • 日中戦争以降の海軍軍事普及部
    • 1937年11月「大本営海軍報道部」設置
      • 海軍省に属する軍事普及部とは別に宣伝を扱う機関が誕生したが、実際には大本営海軍報道部長と軍事普及部委員長は兼任であり両組織は事実上一本化されていた。
    • 1940年12月「情報局」設置
      • 軍事普及部は廃止(発展的解消)されるが、大本営海軍報道部は存続。
    • 太平洋戦争時の宣伝活動
      • 戦時下では首相の下の情報局と大本営海軍報道部が宣伝活動を担う。その源流は軍事普及部であるので様々な経験やノウハウが「大本営発表」に象徴される海軍のラジオ利用へと繋がっていった(※レジュメ作成者註:史料的根拠が提示されていないためやや恣意的)

おわりに

  • 軍事普及部への改組要因とそのノウハウの継承
    • 総力戦となった第一次世界大戦とその後の軍縮の機運に対応するため海軍は1924年に海軍軍事普及委員会を設置するが、それは「案画ノ機関」として位置づけられていた。だが1931年に満州事変が、1932年に第一次上海事変が勃発すると海軍は改めて宣伝の重要性を強く認識し、1932年10月に軍事普及委員会を改組して軍事普及部を設置した。軍事普及部は「実行機関」であり新聞やラジオ等を用いて宣伝を展開し、そのノウハウは軍事普及部が廃止された後も太平洋戦争における宣伝に繋がっていった(※レジュメ作成者註:だが具体的にどのように継承されたのか実証はされていない)。