- 概要
はじめに
- 使用史料
- 『水交社記事』
- 海軍士官の親睦・研鑽団体「水交社」刊行の機関誌。創刊は1890年。前身の『海軍雑誌』は1883年創刊。終刊は1944年。内容は現役の海軍軍人の知識・能力向上に資するもの(技術・戦訓に関するもの、外国文献の紹介・翻訳等)が中心。
- 『有終』
- 海軍の予備役・後備役士官の親睦団体である「有終会」刊行の機関誌。創刊は1913年、終刊は1945年。内容は回想や時事問題に関する論考。雑多な幅広い記事が特徴。
- 『海軍要覧』
- 有終会が「一般世人」に対する海軍・海事関係の「知識啓発」を目的の一つとして刊行。1918年に『海事参考年鑑』として創刊、『海軍及海事要覧』、『海軍要覧』と書名を変更しながら概ね2年に1冊の割合で1944年まで刊行。
- 機密文書
- 田中宏巳・影山好一郎監修『昭和6・7年事変海軍戦史』緑蔭書房
- 『水交社記事』
1.海軍の雑誌・年鑑にみる宣伝活動への認識・関心
- 海軍軍事普及委員会とラジオ放送の関係性
- 海軍軍事普及委員会は1924年5月に設置された。日本のラジオ放送の開始はこの翌年の1925年。軍事普及委員会設置とラジオ放送開始は近接しているが、新しく登場したラジオの活用する議論はまだ登場していなかった。
- 海軍軍事普及部と宣伝
- 1932年10月、「海軍軍事普及部」へ改組。この頃から刊行物に「宣伝」に注目した論考・記事が見られるようになる。
- 海軍主計大尉 福泉貞一「支那の米国に於ける逆宣伝」(『水交社記事』昭和7年6月号)→満州事変において巧妙に行われた中国の列国に対する対日逆宣伝を参考とするべく中国の英字新聞「チャイナプレス」の「対日悪宣伝」記事を翻訳して掲載。
- 海軍主計大佐 河西金重郎「海軍の宣伝を論ず」(『有終』昭和7年10月号)→海軍も特に「一般民衆」に向けた宣伝を「平易にして普通に、然かも強烈なる意気」をもって行うべきと主張。
- 『昭和8年版 海軍要覧』→「太平洋問題の解決」、「帝国の海軍政策」など海軍の政治的主張ともいえる内容を掲げた章が設置される。後者には「帝国の存立上直面せる脅威」「帝国としての防衛策」といったこれまでとは異質ともいえる節が登場。中国の排日運動や諸外国による日本への悪宣伝・誤解が1933年当時における重大な「脅威」であるとの認識を示し、その「防衛策」として国内世論の一致・国際社会に向けての説明の重要性を指摘している。
- 1932年10月、「海軍軍事普及部」へ改組。この頃から刊行物に「宣伝」に注目した論考・記事が見られるようになる。
- 1932年頃に海軍が宣伝の重要性を強調し始めた契機は何か?
- 1930年4月に調印されたロンドン軍縮への不満、次期軍縮会議への対策といった問題が宣伝への関心を増大させる要因となったことは間違いない。
- 軍事普及部への改組が1932年10月であったこと、『海軍要覧』がロンドン軍縮の直近の号ではなく昭和8年版から宣伝の重要性を強調すること、その内容が国際的な問題に重きを置いていることから、宣伝の重要性を強く認識させる何らかの国際的な出来事がロンドン条約の後にあったとも考えられる。
- 1932年1月28日の第一次上海事変の勃発、同年9月18日の満州事変。これらの事変において日本は国際社会から理解を得られず1933年3月には国際連盟脱退通告へ至る。海軍が宣伝を重視・強調する契機として満州事変が浮上してくる。
2.機密文書にみる満洲事変における宣伝活動
- 軍事普及委員会は何をしていたのか
- 満州事変を契機とする普及委員会の本格的な活動開始
- 中国の宣伝政策の影響
- 体制不充分であった海軍に比べ中国側の活発な宣伝の展開、日本に不利な国際世論の形成は海軍に宣伝の重要性を改めて認識させる大きな要因となった。
3.海軍軍事普及部の設置とその宣伝活動
- 『昭和6・7年事変海軍戦史 第二巻 戦紀巻二』に見る海軍軍事普及部への改組理由
- 「新聞社ニ対シテハ大臣官房、新聞以外ニ対シテハ軍事普及〔委員〕会ト宣伝業務二分セル為、実施上困難少ナカラズ、事変中、宣伝機関創設ノ議起リ、昭和7年10月ニ至リ軍事普及委員会規定ノ改正」が行われ、軍事普及部が設置されるに至った」(874~878頁)
- 『東京朝日新聞』に見る「実行機関」としての海軍軍事普及部
- ①ラジオに関するもの
- ②新聞対応に関するもの
- ③パンフレットに関するもの
- ④代表窓口機能