【巡検】江戸時代は場所請負制で繁栄していたのに明治になり釧路の後塵を拝したため対策として屯田兵を誘致した厚岸(厚岸町郷土館・太田屯田開拓記念館)

厚岸に屯田兵を誘致する際、太田紋助が土地の選定を主導したので、その屯田兵村は太田村と命名された。
だがその土地は農業に向かず適作物の試験なども無く全てが試行錯誤であったため凄まじい労苦があった。
太田村へは明治23年に440戸が入植。明治37年日露戦争への招集後、同年9月に屯田兵条例は廃止された。
故に太田村は衰退したが、農業に畜産をとり入れる主畜農業を展開、馬産、肉牛を経て酪農へと移行した。
厚岸に屯田兵が誘致されたのは、明治に入ってから道東の中心地が厚岸から釧路へ変わったことによる。
江戸時代までは「場所」として、また蝦夷三官寺の一つ厚岸国泰寺が置かれて栄えた厚岸だったが……。
鳥取士族の入植(明治17-18年)、釧路集治監の設置(明治18年)もあり、釧路が勝るようになるのである。
これに対抗するために屯田兵の誘致が行われ、その土地選定を太田紋助が行ったのである。
それを踏まえると太田村に入植した兵士たちの労苦は厚岸の経済事情により左右されたと言えるのかもしれない。

【目次】

厚岸町郷土館

主に考古と前近代の展示が中心である
厚岸国泰寺

考古資料と前近代。前近代において厚岸は場所請負制から発展し、徳川幕府による蝦夷三官寺の一つ国泰寺が置かれた。そこでは住職によって当時の記録が残されており、その『日鑑記』から江戸期厚岸の様子を読み取ることができる。厚岸の支配者は時代ごとに代わったが、土地に根付いた寺院が史料を残したケース。

太田屯田開拓記念館

屯田兵村の土地選定を主導した太田紋助にちなんで太田村
入植ありきの屯田兵村であったため、適作物も分からない中で失敗を繰り返しながら畜産に辿り着く

厚岸の北に入植した屯田兵村を記念する施設。屯田兵は入植する土地によって開墾が成功するかどうかかなりの差があった。根釧台地で本州のような農業ができるわけもなく、しかも農業経験の無い士族たちであったため、開拓の労苦は凄まじいののがあったという。兵役期間が過ぎると、土地と建物を捨て、安定した生活を求めて公務員や教員などの俸給生活者になる事例も多かったという。結局、養蚕なども試みるが上手くいかず、主畜農業に辿り着き、馬産、肉牛を経て、酪農へと移って行った。

町史から

漁民の定住

明治初期には季節雇いの漁民として移動してきたまま厚岸に定住した者〔……〕当初、こうした漁民は季節ごとに移動していたが、そのうちに浜に定住し、更にその縁者が浜にやってくることで、町が形成されていった。明治15年(1882)に開拓使が廃止されて3県が設置されると、それまでに賦課されていた水産税が軽減され、漁業関係者の経済的負担が若干軽減された。また、厚岸産のカキを用いた加工食品が博覧会で好評を得ると、カキ缶詰工場が設置された奔渡町には多数の移住があった。缶詰工場を中心として住宅街が形成されたことに因み、当時は奔渡地区を「缶詰」と呼んだという。一方、人口が増加すると、冷涼な厚岸の気候もあって、漁民が口にする蔬菜類の確保に困難が生じた。十分な野菜が確保できないために、コンブ漁に支障がある旨の文章も残っている。厚岸には厚岸湖という資源の宝庫が広がっているが、冷涼な気候かつ湿地帯が広がる地域で生活を維持するに必要な食料を確保するためには、解決すべき課題が数多く存在していた。」
厚岸町編集委員会『新厚岸町史通史編第2巻』厚岸町、2020、315頁

厚岸の凋落

「天然の良港を擁する厚岸は、江戸時代には海陸交通の要衝であり、寛永年間に厚岸場所が開設されて以来、東蝦夷地最大の拠点であった。明治12年(1879)には厚岸・釧路・白糠・阿寒・足寄・川上・網尻郡役所が湾月町に置かれ、厚岸は名実ともに釧路国行政の中心となった。しかしその後、釧路が飛躍的な進歩を遂げ、厚岸は次第に釧路の後塵を拝するようになる。明治17年とその翌年、釧路に接する阿寒川沿いに鳥取県士族105戸が移住して鳥取村が開村し、そこを往来する人々や物資の集積によって釧路の繁栄がもたらされた。明治18年5月、釧路外4郡役所が分離されて、厚岸郡役所は厚岸郡のみを管轄することになり、この年をもって政治・行政の中心は釧路に移ったのである。」
厚岸町編集委員会『新厚岸町史通史編第2巻』厚岸町、2020、722頁

屯田兵誘致運動

「釧路の繁栄に対し漁業をほとんど唯一の生産基盤とする厚岸の発展には限界があった。明治10年代に入り、鰊漁の極端な不振が続き、特に16年からは3年連続の氷害によって平年の2、3割の収穫しかなく、たまの豊漁でも不況下のもとで魚価は下落した。低迷状態の厚岸にとっては住民の流出を防ぐことが最大の課題となっていた。こうした厚岸の挽回策が屯田兵の誘致であった。明治18年4月、厚岸の有力商人であった中元寺清七・中川喜三郎・林大助・三戸幾太郎の有志4人は連名で〔……〕請願書を根室県令湯地定基に提出した。〔……〕すでに川上郡(標茶)では釧路集治監の設置が決まり、その繁栄を見越して厚岸から移転する者が現われている。根室では屯田兵の設置(後の和田村)が決定して兵屋の建設が始まり、将来は陸産が開け繁栄をもたらすだろう。しかし厚岸は天然の良港を持ち根室より気候が良く農業・林産に適しているので、是非とも屯田兵を設置してほしいとの切実な請願である。」厚岸町編集委員会『新厚岸町史通史編第2巻』厚岸町、2020、723-724頁

入植地の選定

「〔……〕請願者たち屯田兵の入植予定地として、土地も広く地味も肥えているという理由で、ノコリベリベツ(残縁別)とベカンベウシ(別寒辺牛)の中間付近を選定していた(『函館新聞明治23年4月5日)。これは現在の奥別寒辺牛のあたりと思われる。しかしこの計画を知った太田紋助は、この地の不可なることを頻りに述べて強硬に反対した。〔……〕その結果、真龍村を離れること1里余り、自分が所有するヤマコベツ農場の奥の高台を選んだのである。厚岸の有志たちもそれを受け入れた。明治19年屯田兵本部長永山武四郎が道内を巡察し、「屯田兵ヲ配置スベキ適応ノ地」を選定した〔……〕この実地調査によって、ヤマコベツ一帯が最高評価を得、屯田兵の入植地に決定したのである。この地を仮に「真龍村字ホマカイ」と呼ぶことになった。」
厚岸町編集委員会『新厚岸町史通史編第2巻』厚岸町、2020、724-726頁

屯田兵制度の終焉

日清戦争の後、政府は軍備の拡張をはかり、常備6個師団を倍増して、新たに6個師団の新設を決定した。29年5月北海道に第7師団の創設が発令され、初代師団長に永山武四郎が任じられた。同時に屯田兵司令部は廃止となり、新しく師団司令部が開庁した。これにともない道内各地の屯田兵はすべて第7師団の司令部の直属となった。明治29年1月から渡島・後志・胆振・石狩の4か国に徴兵令が施行され、31年1月には残る天塩・北見・日高・根室・十勝・釧路・千島の七か国にも拡大されて、北海道全域に徴兵令が施行されるにいたった。ここにおいて屯田兵という変則的な軍備は役割を終え、32年に入植した士別・剣淵を最後として募集は中止される。37年4月屯田兵の後備役編入により現役兵は皆無となり、同年9月屯田兵条例が廃止されてこの役割は幕を閉じるのである。」
厚岸町編集委員会『新厚岸町史通史編第2巻』厚岸町、2020、782頁