【巡検】阿寒町~古潭雄別歴史資料室(布伏内コミュニティセンター内)・阿寒町公民館ロビー展示・阿寒町郷土資料収蔵室~

阿寒町の郷土資料館を調べに行った時の記録。

公式では阿寒町郷土資料収蔵室が、郷土資料系の主たる施設。だが普段は施錠されており入れないので、事前に教育委員会に電話しアポを取って開けて貰うという形式。自治体の郷土資料施設の形態は、大体以下の様な感じである。①料金を取り開館、②無料で開館、③普段は施錠されており鍵を開けて貰う、④冬季には閉まっており夏期のみ、⑤そもそも郷土資料施設が無いというケース。

また古潭雄別歴史資料室は自治体の公式webだと単なるコミセンであり展示があるなど一言も書いていない(cf.布伏内コミュニティセンター 施設案内|釧路市ホームページ)。展示内容は下手な自治体の郷土館よりもよほど充実しており後世に伝えて行こうとする熱意が感じられるので、webももう少しなんとかすればいいのにとは思う。

【目次】

古潭雄別歴史資料室(布伏内コミュニティセンター内)

布伏内コミュニティセンター内

古潭雄別歴史資料室は布伏内コミュニティセンター内にあるのだが、自治体の公式webにはコミセン内に歴史資料室があるなど一つも書いていない。釧路市立博物館のFBと協力隊のnoteにより、この施設の情報に辿り着いた。実際コミセンの半分以上の部屋が雄別鉄道の写真やパネルで埋め尽くされている。当時の蒸気機関車ディーゼルカー、路線図や炭砿町市街図、過去の写真と現在の比較など非常に豊富な資料に接することができる。雄別鉄道は1970年に廃線となるのだが、廃線〇周年や開業〇周年などことある毎にイベントを開催しており、後世に記録を残そうという意識が伝わってくる。近代化遺産であることをアピールしながら、ヘリテージトレイルのコース作りも行っており、自然に還って埋もれてしまった失われし文明の断片に触れることが出来た。
 

廊下だけでなく各部屋にもミッチリと写真パネルや資料がある

ポストアポカリプスみを感じる。

雄別はまさに石炭の町であり、炭鉱により町が形成され、繁栄の根拠は石炭産業にあった。そのため石炭が衰退すれば滅ぶことは明白でありエネルギー革命による石炭から石油への転換により集落は消滅した。現在は人間の痕跡は自然に埋もれ、わずかに遺物を残すのみである。

だがこれは北海道全体に言える。北海道自体が前近代で開発されたのは沿岸部の漁場周辺であり、内陸部は明治を待たねばならなかった。和人が住んでいなかったということはそれだけ過酷な土地であり、明治になってそこへ無理やり入植させたのだから、ある程度の強制力や国家的な補助が無ければ元々成り立たなかったのである。

だからこそ、産業や補助が消えれば、その地域へ居住し続けねばならない理由は希薄化する。他の地域や産業の方に吸引力があればそちらに流れるのも当然であろう。雄別の場合は石炭産業という吸引力のみで形成された町であったため、その吸引力が無くなったため自然へ還って行った。集落や自治体は緩やかに消滅していっている。

阿寒町公民館でも雄別鉄道のロビー展示をやっているので見てきたのだが、公民館内に図書室も併設されていたので、町史も読んで来た。

阿寒町百年史』における雄別鉄道に関する記述の抜粋

本町(※引用者註-阿寒町、以下同じ)における交通発達の画期的なものは、大正12年の雄別鉄道の開通である。この鉄道の開通によって本町の産業、特に鉱業、林業は著しく躍進し、人、財貨の輸送は言うまでもなく、釧路との交流が盛んになり、文化導入にも大きな役割を果たしている。

大正8年に資本金三百万円をもって北海道炭砿鉄道株式会社が設立され、大正9年鉄道敷設計画が立てられ〔……〕、最初の計画では大楽毛、雄別炭山間を予定していたが、それが港の関係で変更され、釧路駅、雄別炭山間となった。そして大正10年同社は〔……〕地方鉄道敷設の免許を受けて工事に着手した〔……〕かくしてこの工事は大正11年に竣工し、石炭の輸送が開始された。

最初のうちは貨物輸送のみであったが、翌12年1月から客貨輸送の一般営業も行われるようになった。当時駅は新釧路駅、平戸前駅(後の北斗駅)、舌辛駅(後の阿寒駅)、雄別炭山駅の四箇所であった。この間44キロメートル、はじめは旅客貨物の混合列車として約2時間で運行されたのである〔……〕

この会社は大正13年4月三菱系の雄別炭砿鉄道株式会社となり、昭和21年2月財閥解体により三菱系より分離し、社名が雄別炭砿株式会社となった。〔……〕

本町人口の増加により旅客利用が多くなったため、昭和32年8月よりディーゼルカーの運行が始まり、これを契機に客貨分離による合理化が図られた。これにより旅客の雄別炭山-釧路間の所要時間は一挙に2時間から50分に短縮され、更に釧路との結び付きが一段と強化され、本町は釧路の通学通勤圏に入るようにもなった。

また、昭和34年6月雄別炭砿株式会社は鉄道部門を分離し、資本金2億円の雄別鉄道株式会社となり、独立経営を開始することになった〔……〕

昭和45年2月27日エネルギー革命による炭砿不況により雄別炭砿が閉山となり関連企業の雄別鉄道、雄別バスも昭和45年4月15日ついに廃止されるに至った〔……〕雄別鉄道の最終お別れ列車は昭和45年4月15日に運行されたが、各駅で従業員はじめその家族、近隣の人たちが集まり、涙を流して別れを惜しんだ。かくして雄別鉄道も炭砿と運命を共にし、50年の歴史を閉じたのであった〔……〕
阿寒町史編纂委員会編『阿寒町百年史』阿寒町、1986、701-705頁

阿寒町公民館ロビー展示

公民館ロビー展示

まずは公民館のロビー展示から。郷土資料収蔵室は公民館から徒歩5分程度の場所にあり、普段は施錠されている。その展示物のいくつかは公民館のロビーに移動展示されている。具体的には雄別鉄道と郷土力士(明歩谷)と郷土詩人(猪狩満直)の3点であった。雄別鉄道関連の展示は布伏内コミセンの方が気合い入りまくっているので、ロビー展示は少なく感じる。しかし歴史の概略と市街地図も備わっておりコンパクトにまとまっている。これで全体の路線図があればなお分かりやすかったかもしれない。
 

阿寒町郷土資料収蔵室

開拓農家と稲作への執着

続いて郷土資料収蔵室。建物全体はそれなりに広く、各部屋に剥製・農業・生活・教育等々、資料が分野ごとに整理され展示してある。きちんと概説史と年表も設置されており、阿寒町の歴史の流れが把握できるようにされている。

そして私の興味の対象であるのが、自治体の起源・移民の入植・人口を定着させた産業など。北海道の自治体って何をもって起源とするかがそれぞれ違うから面白いよね。阿寒町の場合は、明治20年に現在の鶴居村の雪裡に舌辛村外三ヵ村を管轄する戸長役場が設置されたことを開基としていた。また殖民地区画が明治28年に行われ、明治30年3月に愛知県から安藤利右衛門一家が入植したことを本格的な移住と開拓の始まりとしている。同年には武隈作平が富山団体を43戸・288人率いて移住し、舌辛原野の開拓を始めている。
 

解説パネル

そしてどこに行っても当時の日本人が稲作にチャレンジするのが驚きである。当時は家父長制で次男以下は狭隘な土地で這いずり回るので、自分の土地を持ちたいという原動力があったことは理解できるが、それでも手にした土地でやはりしたいことは稲作なんだなと。米への執着というものが窺われる。阿寒町でも稲作をやっており、不安定ながらも稲作に成功しているのである(ただ昭和7年435反作付けしたのに収穫は皆無というケースもあったように不安定なものであった)。その点、根釧台地で稲作が無理だと判断し、主畜農業をやったのってかなり特異性のあることなんじゃないかと薄ぼんやりと感じた。ただ農業だけでは食えないので、林業をやっているという点は農作物を輸送できないインフラ未整備の地域で共通しているのかもしれない。阿寒も木材の切り出しと流送している

駅逓・阿寒町時代の支所看板
合併した自治体は町民憲章が過去を知る姿

記念碑・遺物

碑文と橋