文学者の自伝的小説から歴史を描き出すことは可能か

今回の授業では、札幌農学校で学んだ農業理念を自ら実践するべく国の農業指導者として僻地に入った人物を取り上げた。その僻地の開拓農家から出た文学者が、北海道文学館の初代理事長である。彼は晩年に自己の若き人生を自伝的小説として残しているのだが、当然、当該農業指導者についても記しているわけだ。また彼はその農業指導者の娘に身分違いの恋心を抱き、後半のシリーズはそれがひとつのテーマとなるため、なおさらその農業指導者の描写が濃くなってくる。勿論自伝的小説はフィクションなので名前なども本名ではないが、そのモチーフとして個人が浮かび上がってくる。また、当時の道東最奥部における開拓の様子が描写されており、これは具体を通して普遍を描く行為と言えよう。よって授業では農業指導者の生涯を縦軸としつつも、文学者の自伝的小説の記述を引用しながら、歴史を描き出す試みを行った。

以下は自伝的小説からの抜き書きである。

御料局の開局

「〔……〕それまでうわさであった御料地開拓の試験場がはじまった。それまで湯治宿と駅逓と、皮買いの家しかなかった、テシカガ温泉を中心に、小高いところに御料局の役所や官舎がたちならび、それらの仕事をする、大工や商店、人夫小屋などもぽつぽつ建ちはじめ、土地の名も弟子屈という漢字をつかうようになった。」(『父母の原野』1983年、偕成社、333頁)

馬と燕麦と冬山造材

「そんな道だから作物をつくって他へ売り出すということができなかった。開拓地の人達は、冬になるとはじまる造材山で働く馬に必要な燕麦をつくり、それを唯一の販売作物にして生活していた。輓馬を持っている者は、馬と燕麦とを持って冬山に働きにでかけた」(『熊牛原野』1965年、広報、43頁)

馬産奨励と競馬

「〔……〕御料局の所長の音頭とりではじめた草競馬は、多少命令的でもあったが〔……〕畜産奨励の意味で開かれたものだった。北海道のうちでも、海流の関係で濃霧の強い、釧路や根室地方では、従来の日本の農法にない、家畜をとりいれたアメリカ式の農業でなければならない。それにはまず馬や牛になれさせることで、そのため競馬をやろうというのがねらいであった。」(『おさない原野』1984年、偕成社、108-109頁)

乳製品に対する当時の食風習

「〔……〕牛乳は〔……〕なれない家の者には「くさい」と評判がよくなかった。まだろくに口のきけない私までが首を横にまげて、父や兄の苦労を受けつけようとしなかった。〔……〕けっきょく、牛乳をよろこんで飲むのは、父と兄のふたりと、たまに郵便をもってくる郵便屋だけで、水をもとめて立ちよる旅人に茶碗でだすと、牛乳のにおいにへきえきして、飲んだあと川にいって口をゆすいだ〔……〕旅人にまで評判がわるかった。父は私に牛乳を飲ませようと、ひごろから牛飼いをすすめている、御料局の所長に相談し、「砂糖をすこし入れてごらん」と教えられた。やってみると砂糖のあまさにつられて、牛乳を見るとにこにこするようになった。」(『おさない原野』偕成社1984年、40-41頁)

養牛

「〔……〕御料局の所長は話をするたび、「牛を飼いなさい。そして牛乳を飲みなさい。外人はみなと同じように、イモとカボチャとトウキビより、たべてないんだ。ただ牛乳をよぶんに飲むだけで、それであんなに大きく強いんだ。なにも外人だけでないよ。クマウシの川上の家だって、とくべつなものをたべているわけでない。ただ牛乳を飲んでいるだけだ。それだけで顔のつやがちがう。みなも牛を飼い、そして牛乳を飲め。」」(『おさない原野』偕成社1984年、233-234頁)

牛産奨励

「はじめから、北海道の農業は、畜産をとり入れた有畜農業でなければ、ぜったいになりたたないとかたく信じ、主張してきた、御料局の大野所長は、あごひげを両方にしごきながら自信ありげに父にいった。「牛を飼いましょう。どんなに寒い年でも、濃霧のひどい年でも、牛を飼う草ののびない年はありません。草さえのびれば牛は育ちます。牛が育てば乳を出してくれるし、肉もとれます。そうすれば乳や肉が売れなくとも、食料にこまることはありませんよ。」キリスト教信者の大野所長は、「私は、そういう私の理想が花咲き、実のなるものを、この目でみないうちは、ここをはなれませんよ、けっして。」そういって目をかがやかせた。「だがね。」所長は言葉を切って立ち上がり、両手をうしろにまわして、なにか自分の考えをたしかめるように、部屋の中をぐるぐると歩きだした。「牛を飼うにしても馬をふやすにしても、いままでのように、ただなんでも頭数をふやすだけでは、もういけませんよ。」所長は右手でほおのひげをなでおろし、そのさきをくわえて、なにか重大な決心を発表でもするように、左手でひたいをぴしゃりとたたいた。「品種改良をした、種類のいいものを入れなくてはね。それでこんど試験場に、種牛と種馬とを入れ、品種のわるい馬や牛の去勢をするために、御料では獣医さんもやといました。」そういって所長は、すこぶる満足そうであった。」(『少年たちの原野』偕成社1984年、175-176頁)

緬羊とホームスパン

「私にはこのほかに、みなの出勤まえに、もう一つ用事があった。それは、事務室から二百メートルほどはなれたところにある、倉庫に差しかけをした小屋に、家畜好きの所長個人が試験的に飼っている十頭ほどの羊に、乾し草牧草を運んで餌づけをする仕事があった。これは太田所長の寒地農業には、かならず畜産を加味しなければという、有畜農業の試験の一環で、養蚕ではなく羊を飼って毛をとり、洋服をつくるという夢の一つであった。牛を飼って乳をとり、肉牛から牛肉を生産する牛飼いも、ある程度見当がついたので、こんどは男の労力でなくとも、女や子どもでもやれる羊を飼わして、まず毛糸をとって、将来は羊毛をつむいでホームスパンを生産して、農民に自家産の洋服を着せようというのであった。」(『移住者の原野』偕成社、1986年、171頁)

御料局所長の家族

「二郎兄には、そうした心の奥のもやもやを、うちあけて話す友人も近くになかった。たったひとり、釧路川の上流にあるコタンの近くで、近ごろ牛飼いをはじめたという、札幌の中学にいっていた御料局の大野所長の次男と、なんとなく気が合っていた。学校のストライキで退学になり、湖畔にはる父親の牧場で牛飼いをはじめたという人だった」。(『おさない原野』偕成社1984年、242頁)

宮内省御料局の所長

「所長は高等官で、官服の金ボタンも五七の桐の紋がうきだしになっていて、ほかの所員の金ボタンの桐は五三の桐で、判任官の技手たちと、はっきり区別されていた。元日と紀元節天長節(いまの天皇誕生日)の三大節になると、所長はぴかぴかの金モールのついた特別の式服を着て、上等な玩具のように美しい、きらきらする短剣をさげ、帽子はなんというのか、ほかで見たことのない、絵にかいたナポレオンのかぶっているようなものだった。それを頭にのせて、肩をいからして式場に参列し、われわれ原野の子どもたちはつばをのんだ。」(『移住者の原野』偕成社、1986年、167頁)

村人との家族的親しみ

「この日の桐の紋にかこまれた社会では、これまでのような「川上君」とか「四郎さん」と呼んでいるのは、ほんとうは違法であって、本来は小使は小使と呼ぶのが、執務規程に定められているのだと知らされた。これまで小使である私を「川上君」とか「四郎さん」とか呼びならされていたのは、この御料地が開拓されて以来、20余年ものあいだこの地に定着して、開拓指導をしてきた太田所長が、村人たちと家族的親しみをもってつきあって、いつのまにか「小使」という御役所用語を忘れ、所員もまたそれにならって、ふだんは親しみをもち、私を呼んでいてくれたのであるらしい。」(『移住者の原野』偕成社、1986年、180-181頁)

札幌農学校におけるキリスト教の思想と御料局における皇室崇拝

「太田所長は、札幌農学校出身の熱心なクリスチャンであったが、宮内省の職員であるかぎり、キリスト教信者であることはおくびにもださなかった。ふだんは、服装のはしばしや、ひげのかり方にまでも、明治天皇崩御のときに殉死した老将軍乃木大将に、その背たけが似ているところから、歩き方や態度、物腰まで似せるほど心酔していた。土地の青年たちの集いには、よくでむいて精神訓話をし、9月13日の将軍の殉死の日には、特別乃木講という集会をし、赤穂浪士が討ち入りをした12月14日の夜は義士講という徹夜の集会をして、虚弱に流れる村の青年たちを叱咤激励したりした。そのこちこちの忠君愛国の思想の持ち主である所長が、時の権力に抵抗して十字架にかけられたキリストの教えと、どうつながるのか、原野以外の世間知らずの私には、まだそれを理解するだけの力はなかった。」(『移住者の原野』偕成社、1986年、181-182頁)

付け届けと賄賂

「ことのおこりというのは、新しく着任した五十嵐、西両技手のところに、ある木材屋からお歳暮だといって、なにがしかのものがとどけられ、「来年もまた、よろしゅうにお願い申します。」という挨拶であった。「われわれはあんたがたから、こんなものをもらう理由はない、もって帰ってくれ。」若いふたりは、それをなにかやましい目的のものと感じとったのである。〔……〕「例年の習わしだそうですので、いちおうあずかってきましたが、これはなんとしても、正当なものと思われませんので、私どもの分は、所長さんの方から先方にお返し願いたいと思います。」と申し出た。〔……〕このことをだれかによって、札幌の支局のほうに知らされて、二十三年つづいた太田所長の札幌転任になったのであるといううわさが、父たちのあいだにまでとり沙汰されたという。」(『移住者の原野』偕成社、1986年、195-197頁)

御料局所長の肖像

「「〔……〕あの人はシラカバのような人なんだよ〔……〕そうだろ、こんな北の果ての、だれもよろこんで来手のないところに、自分からもとめてはいってきて、よくも二十何年もがんばりとおしたものだよ。たしかに、ふつうの人にはできないことだ。わるくいう人は、無能者だから抜擢されなかったのだ、万年所長だといってしまえばそれまでだが、あの人の場合は、そうかんたんにいいきれないものがあるよ〔……〕いや、よほど堅い信念をもった人でないと、ああはできないものだよ〔……〕そうね、ただね……〔……〕ただ、すこしながくいすぎたんだな。きれいな水でも、ながくくんでおくと、にごるじゃないか。あれだよ。おしい人だね。キリスト教の信念をつらぬきとおした人のようだが、それを日本の忠君愛国がひどくじゃまして、後世に残すものを失ったね〔……〕」(『移住者の原野』偕成社、1986年、215-216頁)

自らが開拓した村で

「太田氏が二十三年勤めた私たちの村から去るとき、「私が役所をやめたら、必ず皆のところに戻ってきて、皆と一緒にやり残した開拓の仕事の仕上げをするから…」、村人にそう約束した通り、退職すると村に帰ってきて、何くれとなく村人たちの困っている問題の世話をしていた。〔……〕釧路から十里ほど釧路川をのぼったところにあるトーロ湖という沼のほとりに、小さな山小屋風の山荘をたてた太田氏が、そこで七面鳥や兎を大々的に飼育し、農家の副業にし、いずれは都会のクリスマス用や、寒地向き衣服の毛皮のコートの生産とに結びつけようというのが、太田氏のねらいであった。」(『青春の原野』北海タイムス社、1987年、175-177頁)