またのんき▼「伊ダ落」(Horizontal World)の感想・レビュー

清廉潔白であるべきなのに肉欲を抱き自罰意識に苛まれる先生が伊落マリーに贖罪を求める話。
伊落マリーが当番生徒にやってきた際、先生は自ら慰めている姿をマリーに見られてしまう。
シスター見習いであるマリーに対し先生は自らの罪を告白し生徒に対する懊悩をさらけ出す。
マリーは先生の懺悔の一環として、先生の自涜を見守り、その罪を受け容れる手伝いをする。
だが先生の行為を見守るうちにマリーは自己の中にある先生への性愛を意識していくことになる。
白濁液を自らの顔に注いで貰ったマリーは自分がオナペットになっていることに喜びを感じる。
ついにマリーは先生を受け容れるが自らもまた先生を求めていたのだと実感させられることになる。
†「これがけして不埒な姦淫などではなく、愛ゆえの、いのちのための儀礼なのだと」
先生とマリーは共に聖職者としての道からは外れたが、だからこそ交える道もあるのだエンドを迎える。

先生と伊落マリーが共に堕ちていき聖職者としての道からは外れるが、罪を重ねて愛となる

先生の懊悩と自罰意識

大人として社会的責任のある先生とシスターとして清貧貞潔服従を旨とする伊落マリーが共に聖職者の道から外れるも、外れた先で純愛を得る話。先生は立場ある大人として生徒を導く存在であったが、どうしても劣情を抱いてしまうことに懊悩していた。そのような中、伊落マリーが当番生徒の時、私室で自らを慰めている姿を目撃されてしまう。このことをきっかけに先生は伊落マリーに自らの罪を信仰、告白。罪の意識とその贖罪を求めるようになる。マリーはこの懺悔に赦しを与えるため、先生の自慰の際には必ず立ち合い祈りを捧げるようになっていく。しかし先生の罪と向き合っていくなかで、マリーは自分の中にある先生への性愛に気付いていく。その象徴となるのが先生の射精を両手で受け止めた時のこと。これまでマリーは先生の自慰の際、手を組み祈りを捧げていたのだが、備品が汚れないようにするためという口実を用いて手の平を差し出し受け止めるのである。これが祈りの手が解かれたことを意味し、思わずマリーは自分の手の平を啜ってしまうのであった。
 

祈りの手は解かれていた

マリーは自分の未熟さを痛感し、先生に自分は罪を赦せるに足る存在ではないことを伝えようとする。だがここでマリーは自室に先生を迎え入れたのである。当然、当初の目的を達成する事なくいつものように自慰行為を見届けることになる。とうとうマリーは手の平ではなく自分の顔を捧げ、先生に顔射してもらうのである。マリーは先生が白濁液に染まった自分の顔でなおもしごいている姿を目撃すると自分が先生のオナペットになっていることに喜びを感じるのである。そしてとうとうマリーは先生の逸物を膣内で受け入れることになる。快楽に染まったマリーは破瓜の痛みを感じることもなく気持ちよくなっていく。特に衝撃的だったのは、先生が動きを止めた際マリー自ら求めていた事。すなわちマリーは自分自身で拙いながらも腰を動かしていたのである。こうして繋がった先生とマリーは正常位・後背位・対面立位・達磨返しと行為を重ねていく。生中はまずかろうと先生は引き抜こうとするが、ここでマリーは大しゅきホールドを決行。不埒な姦淫などではなく、愛ゆえの命のための儀礼とするため、膣内射精という証を立てるのであった。ラストは聖職者であった先生とマリーは脇道にそれてしまったけれども、だからこそ愛により交わることができたと述べ、それを堕落の十字路と称して幕を閉じる。
 

自分が先生のオナペットであることに歓喜するマリー

物語の要所要所に挿入される、またのんき▼先生のポエムは、伊落マリーの心情を巧みに表現した素晴らしいものなのでここに記しておく。

証を立てないといけません。これがけして不埒な行為などではなく、愛ゆえの、命のための儀礼なのだと

先生のしあわせは、わたしのしあわせ。先生への祈りは、わたしたちへの祈り。でしたら、この罪の在処は、先生でも、わたしでもなく―わたしたちだけの…

先生の道と私の道、それぞれが積み上げてきた道。並んで進んでいたはずの正しき道から、今回…脇道に逸れてしまいました。でも…逸れた先の、そこでのみ、交わる場所があると、わたしはそれを知りました。互いの罪を、罪で重ね合わせる、ここは…堕落の十字路

けして不埒な行為などではなく、愛ゆえの、命のための儀礼