満蒙開拓団で重要なのは東宮鐵男と加藤完治。移民を計画したのは東宮鐵男。当初はロシアのコサックを参考にして武装農民集団を構想していた。朝鮮人主体の武装農民を日本人の在郷軍人に率いさせようとしたのである。しかしこれに否を唱えたのは、加藤完治。加藤は農村の疲弊を満州への農業移民政策により解消することを主張していた。故に満蒙移民は日本人主体であらねばならぬことを押し通した。満蒙移民は当初財政難から犬養毅内閣蔵相高橋是清により反対されたが、5.15事件で排除。試験移民が派遣される。さらに2.26事件後の広田弘毅内閣では七大国策の6番目として移民推進が唱えられ、青少年義勇軍や村ごと移住する大規模な移民が実施された。しかし、1945年4月の日ソ中立条約破棄によって関東軍は満蒙移民を見捨て、8月9日にはソ連侵攻を受けて、満蒙開拓団は壊滅した。27万の移民を送り込み、「五族共和・王道楽土」をスローガンにした満蒙開拓団。東宮の生家があった群馬県前橋市には膨大な資料が残されていたので、そこから満蒙開拓団が送られた経緯が明らかになった。以上がこの動画の要旨。
- 昭和4年
- 田中義一 陸軍の隠蔽工作を受け、陸軍内部に犯人はいないと上奏
- 天皇「初め言ったことと違うのではないか?」と激しく叱責 → 田中内閣総辞職
- 軍部
- 首謀者とされる河本大作が停職となっただけで厳しい処分なし → 昭和軍部暴走のきっかけ
- 東宮は内地へ転属
- 東宮はなぜ移民計画に関心を抱いたか
- きっかけ → 大正7年〜11年シベリア出兵
- ソ連の脅威を肌に感じる。
- 国境警備のコサック兵に移民計画のヒントを得る
- 計画 → コサックを参考にした満州集団移民
- 吉林省について
- 匪賊が出没し、危険な地域 →反日攻撃を繰り返す
- 東宮は現地の中国人部隊を指揮し匪賊の討伐と警戒にあたる
- 昭和7年
- 3月 満州国成立 → 国際的非難浴びる 日本孤立化
- 5月 5.15事件
- 拓務省
- 斉藤実内閣誕生を契機に一挙に移民計画を推し進めようとする
- 加藤完治
- 農業教育の一任者 東宮と二人三脚で移民を実現させていく
- 農村の疲弊を満州への農業移民政策により解消することを主張
- 加藤は皇族の三笠宮を訓練所に招くなど、国家事業としての農業移民を推進
- 加藤「土地無き日本農民が開拓を待つ満蒙の白い天地に行くのは当然である」
- 6月 吉林屯墾軍機関隊編成具申書
-
- 開拓農民とは異なる →開拓民が武装し ソ連の脅威を防ぐ
- 永久駐屯→「屯墾軍」非常時には関東軍に編入され戦闘行為 → 「シベリアのコサックのような武装農民」
- 6月14日 加藤・東宮会談
- 東宮:朝鮮人主体 大量の朝鮮人を在郷軍人が統率
- 加藤:日本人主体 1集団500人 10箇所で5000人 日本人だけ 日本人を大量に満州に送り込む国策の出発点
- 8月30日 第一次試験移民予算20万円 天皇裁可
- 10月 第一次試験移民出発
- 10月14日 ジャムスの街到着 → 匪賊の襲撃を受ける
- 団員たち 予想とは全く違う事態に困惑
- 第一次移民団の入植予定地=永豊鎮
- 昭和8年
- 2月 先遣隊が永豊鎮へ向かう
- 東亜勧業株式会社:中国人先住者から土地を買収→中国人を立ち退かせる
- 強引な土地の獲得 先住民の不満→反日
- 4月 ジャムス入植本格化 → 屯墾病
- 7月 移民団屯墾隊反乱 幹部排斥運動
- 事態深刻化 東亜勧業報告書「鶏豚の強奪、無銭飲食、路上の暴行甚だしきに至りては強盗強姦さへ行う者生じるに至る、匪賊よりも恐ろし」
- 第一次移民団に次々に生じる問題 → 入植方法の再検討。国民には現状を伝えず
- 昭和11年
- 満州農業移民百万戸移住計画案
- 満州国の人口1割を日本人にする
- 在郷軍人から転換 → 20年間で500万人
- 日本の耕地面積の1.7倍を確保する必要性
- 2.26事件 勃発 → 軍部支配決定的
- 3月 広田弘毅内閣誕生
- 8月「国策の基準」七大国策六番目→20年間で満蒙開拓団100万戸500万人を入植させる。国策移民の遂行は4期に分け昭和32年まで続ける長期計画。
- 昭和13年〜
- 東宮鐵男死亡
- 青少年義勇軍(14歳〜19歳)
- 開拓団は国を挙げての大事業となる → 村ごと日本から移住するケースも
- 昭和20年
- 4月 日ソ中立条約破棄 → 満州国北部の移民が見捨てられる
- 8月9日 ソ連侵攻 → 満蒙開拓団犠牲(27万人のうち8万人が日本に戻れず)→集団自決・中国孤児など