- 文章の趣旨
以下気になった箇所のメモ
- 植民地台湾(pp.6-7)
- …最初の植民地台湾では、1935年は「領台40年」にあたり、これを機に台湾をより明確に南進基地化しようとの動きが総督府・台湾軍上層部の内で急浮上する。この南進志向は、日本国内のアジア回帰熱の高まり、海軍軍縮条約から離脱後の海軍中枢の積極的な対外進出論と不可分の関係にあった…
- …1930年の先住民(タイヤル族)蜂起「霧社事件」の鎮圧後、総督府は「恩威併用」策を打ち出し、内台共婚制の採用(1932年)、地方自治の改正(1935年)、一部の民選議院を認める等に着手したが、これらは日本統治への協力者を養成すること意図した政策であった…
- …当時日本側によって喧伝された「内台一如」「一視同仁」といったスローガンを植民地社会の末端にまで浸透させる上で鍵となったのは、「国語」政策すなわち日本語を民衆の間に普及することであった。換言すれば、広義の台湾人を彼ら自身の文化と歴史から切断することであった。
- 植民地朝鮮(pp.8-9)
- 1930年代半ば、日本による植民地化から4半世紀を経た朝鮮では、少なくとも支配者に対する対応という点では台湾と大きく異なる様相を呈した。知識階級による穏健な民族主義的改革要求が基調となっていた台湾と対照的に、当時の朝鮮ではより激しい民族闘争が展開された。それも監視体制が厳しい自国内よりも、日本、満洲(現中国東北地方)あるいは中国など彼らからみた異郷の地での運動が顕著であった。いわばディアスポラ・ナショナリズムという性格を色濃く帯びていた。
- …日本統治期になってから多くの朝鮮人が満洲に移住した。もちろん地理的近接性もあって、中国東北地方(満洲)には李朝末期から多数の朝鮮人が移り住んでいた。とりわけ間島(現在の延辺朝鮮族自治区)地方が最大の朝鮮人集住地域であった……関東はまさに大陸進出にとっての絶好の足がかりであり、同時に国籍上は「在外邦人」である朝鮮人は「間島での権益を拡大する尖兵」として重要な役割が期待された……
- 戦争を煽るマスメディア(pp.15-16)
- 満洲事変は、当時の日本の国内世論で圧倒的な支持を受けた。主要新聞もこぞって日本軍の行動を熱狂的な筆致で歓迎し、戦意高揚の先陣を切った。たとえば『東京日日新聞』(1931年10月1日)は社説で、「国民の要求するところは、ただわが政府当局が強硬以て時局の解決に当る以外にない、われ等は重ねて政府のあくまで強硬ならんことを切望するものである」と主張した。世界恐慌の後遺症に苦しむ当時の日本では、満洲進出こそが国内の矛盾を解決する望ましい選択肢であると広く受け止められた。こうした怒濤のような潮流の中では、「いかに善政を布かれても日本国民は、日本国民以外の者の支配を受くるを快とせざるが如く、支那国民にもまた同様の感情の存することを許さねばならぬ」との石橋湛山の事変直後の言説(「満蒙問題解決の根本方針如何」『東洋経済新報』1931年9月26日号)は瞬時の内にかき消された。
- …盧溝橋で新たな銃声が響いた…この事件にも、満洲事変時と同じように主要各紙、一般世論は積極的な支持を与えた。ほとんどのメディアは、「支那軍の暴戻を膺懲」することが日本の出兵目的であるとの論陣を張った。
- 南進と台湾(pp.21-22)
- 朝鮮における言語政策(p.22-23)
- 「創氏改名」の歴史的意義(p.23)
- 1938年以前の日独関係(p.25)
- …盧溝橋事件勃発直後の1937年7月28日、ベルリンの外務省高官ヴァイツゼッカー(元ドイツ連邦共和国大統領の父親)は、次のように発言した。「中国での日本の行動を共産主義に対する戦いとして防共協定で正当化しようとする日本側の説明はまったく邪道である……日本の行動はむしろ防共協定と矛盾していると見なされる。なぜなら、日本の行動は中国の統一を妨害し、それにより中国での共産主義の拡大を促進し、結局は中国をロシアの手の内に追い込むからである」。ヴァイツゼッカー発言、とりわけ後半部分は結果的に正鵠を射たものであることが立証された。ヒトラー自身も同年8月16日、日本との提携は維持するものの現時点での日中紛争でドイツは中立を保つべきであること、そして武器の対中輸出は日本に知られぬよう対外的隠蔽工作をしてでも維持せよと命じていた…
- 外務省調書「日本外交の過誤」(『外交史料館報』第17号所収)(pp.28-29)
- …1950年代初め、当時の首相吉田茂(外相兼務)の命で作成され、2003年春に公開された外務省調書「日本外交の過誤」は何故戦争が回避できなかったかを外務省自身が分析した報告書として大きな反響を呼んだ(『外交史料館報』第17号所収)。そこでは満洲事変以来敗戦に至る約15年間の日本外交の過誤の「過誤」を、いわば戦争原因が8項目にわたり論じられている。その一つが「仏印進駐・蘭印交渉」即ち南進をめぐる過誤であった。調書は、二度にわたる仏印進駐は「ヴァイタルな一線を越えた」と特記し、石油獲得を主目的とした日蘭会商については「(過大な要求をせずに)出来るだけのところで話し合いをつければよかった」と指摘する。その上で南進政策全体に関し、「欧でのドイツ優越を利用し無理な南方進出、かえってのど元を締める。元も子もなくなる」と突き放した評価を下した。この外務省調書は、再独立後の日本外交を展望するために、近過去の外交を回顧し軍部の過剰介入を非難する一方、返す刀でそれに引きずられた戦前・戦中期の外務省の対応を"自己批判"する形でまとめられている。
- アジア解放という理念のタテマエ(p.29)
- …「治安維持」を確立し、「重要資源」を獲得し、かつ日本軍の「現地自活」という占領政策=軍政の三原則を達成するには、東南アジア側とりわけ民族主義指導者の指示と協力を得ることが不可欠であった。そのために日本は、タテマエとして欧米植民地体制の打破とアジア解放を戦争目的として掲げざるを得なかった。日本が提示したこの「アジア解放」の理念に対し東南アジアの民族主義者がどのように対応したかは、各地域の民族主義運動史、宗主国の対植民地政策、過去の対日関係等の多様な差異に起因し、一般化することは容易ではない。それにもかかわらず、日本が日中戦争の打開を南進に求めたように、東南アジアの民族指導者の間では、堅牢な植民地体制にくさびを打ち込む一助として南進日本のエネルギーをどのように利用するかが新たな課題となった。
- 1941年以降の3つの中国(p.35)
- 東南アジアにおける戦時期抗日運動の担い手を基準とした分類の4類型(pp.41-42)
- 第一は、旧宗主国や連合国との関係で組織された運動で、フィリピンのUSAFFE(アメリカ極東軍)指揮下の抗日ゲリラがその典型である。占領地ではないが、事実上日本が大きな発言力をもった独立国タイにおける自由タイ運動も、この範疇に入ろう。
- 第二は、共産主義者の指導による抗日運動でホー・チ・ミンの率いるベトナム独立同盟会(ベトミン)やマラヤ人民抗日軍(MPAJA)、さらにはフィリピンの抗日人民軍(フクバラハップ)に代表される。
- 第三は、戦争末期の1945年初頭に相次いで発生したインドネシアのペタ(郷土防衛義勇軍)によるブリタール蜂起、ビルマ国軍を主体とする抗日反乱に象徴されるように、日本軍がその創設、訓練に深くかかわった軍事組織による抗日運動である。そのこと自体が彼らの対日認識の鋭角的な悪化を象徴するものであったが、同時に独立後のインドネシア国軍、ビルマ国軍は、自分たちが「中核」となって起こした抗日蜂起を救国的な義挙と位置づけ、国軍の政治支配を正当化する根拠として意図的に利用した事実も指摘されるべき点である。
- 第四として各地で米や労働力の強制的供出に対する不満や宮城遥拝等の文化的要因に起因して発生した"自然発生的"な抗日運動も、戦争末期になると各地で広範に発生したことも指摘しておきたい。
- 敗戦の原因(p.44)
- 敗戦の原因は、いうまでもなくさまざまな要因の複雑な絡み合いの相乗作用の結果である。鈴木貫太郎内閣の「ポツダム宣言黙殺・戦争邁進発言」(7月28日)後、米軍により広島と長崎に投下された二個の原爆、ソ連軍の突如の対日参戦といった直接的要因に加え(逆にいえば早期にポツダム宣言が受諾されていれば、上記事態による惨害はなかった)、長期化する中国の抗日戦争の拡大、占領地東南アジアにおける日本からの離反や独立運動の高揚、そして最大の同盟国ドイツの降伏といった外的要因、さらには国内における一部指導者の国体護持を目的とする和平模索、どん底にまで落ち込んだ国民生活の疲弊を背景とする厭戦気分の広がり等きわめて多種多様な要因があった。