- 植民地帝国日本の始まり
- 公使と大使
- 日本の植民地帝国の特性 軍事的安全保障
- 主権線 利益線 生命線
- 「〔……〕山県演説に現れた日本の「利益線」(利益範囲)概念は、欧米列強のアフリカ分割に適用された概念とは異なり、日本が国境線の安全に密接に係わると見た地域に適用されるものでした。要するに日本の「利益範囲」とは、欧米の場合よりも、すぐれて軍事的な意味をもつ「利益範囲」でした。日本の場合、「利益範囲」は国境線と隣接する区域を想定しており、「利益線」は後年の「生命線」に近い概念でした。山県演説に先立って政府部内に提出された山県意見書において、「利益線の焦点」とされたのは朝鮮半島でした。山県演説が陸海軍費の使途の説明として、「利益線」の確保を強調した所以はそこにあったのです。」(153頁)
- 新外交と植民地統治の変化
- 「大正後半期には、特に1918(大正7)年に成立した原政友会内閣の時期以降、明治期に確立された植民地官制の内容に少なからぬ改正が行われました。そしてその多くが枢密院に付議され、枢密院はそれらに対する態度決定を求められることとなりました。それらの改正の基本的な方向は、一つは植民地統治の脱軍事化、とりわけ脱陸軍化であり、もう一つは植民地と本国との「同化」でした。そうした植民地立法改正の方向が打ち出されたのは、必ずしも日本の自発的な企図ではありません。1919(大正8)年に朝鮮に激発した三・一独立運動に象徴される朝鮮ナショナリズムをはじめとして、南満洲やさまざまなナショナリズムに直面した日本の政府の、いわば不可避的な対応に他ならなかったのです。しかもそのような対応は、第一次大戦後の欧米諸国との国際協調を維持するためにも必要でした。国際協調とナショナリズムという第一次大戦後の二つの時代の要請に対して、帝国主義の遺産をいかに守るかという問題意識から生まれたのが、大正後半期における一連の植民地官制改正の試みだったのです。」(174頁)
- 脱帝国主義時代における植民地の正統化
- 「〔……〕日本の植民地統治体制にも第一次大戦後の脱帝国主義の時代の影響が及びました。「同化」政策はそれを体現していたのです。帝国主義の遺産を脱帝国主義の時代にふさわしい形でいかにして守るかという問題意識が、「同化」政策の根底にはあった。拓務省官制はそのような問題意識の所産だったのです。ところで、同じ問題意識に基づいて、1930年代以降に登場したのが、帝国主義に代わる国際政治イデオロギーとしての「地域主義」でした。それは脱帝国主義の時代の影響を払拭し、満洲事変以降の日本を主体とする東アジアの国際政治変動によってもたらされた結果を正当化しようとしたのです。〔……〕「地域主義」は「民族主義」の対立概念として提示され、「民族主義」を超える新しい国際秩序の原理と見なされました。普遍主義的国際法によっては説明できない日本との特殊な関係を持つ「満州国」の出現は統一的主権国家の確立をめざす中国民族主義とは明らかに抵触するものであり、中国民族主義に対抗して日満間の特殊な関係を正当化するには、「民族主義」ではなく、「民族主義」を超える「地域主義」の原理を対置する必要があったのです。しかも〔……〕国際連盟脱退後の国際的孤立化を恐れていた当時の日本は、国際連盟に代わる何らかの国際機関を必要としていました。グローバルな国際組織に代わる地域的国際組織の中に日本の生きる砦を見出そうというのが、「地域主義」を導入する当初の根本動機だったのです。」(189-193頁)
- 世界新秩序
- 日本で戦後復興や高度成長が成し遂げられたのは、企業戦士やモーレツ社員が頑張ったからでは全くなく、冷戦構造による「垂直的国際分業」システムによるものに過ぎない。
- 「〔……〕非共産圏アジアに対して支配的影響力を獲得するにいたった米国が冷戦の展開に対応して、独自の「地域主義」的国際秩序を構想し、その中に日本を位置づけたからです。それは日本をアジアの経済的な地域的中心軸として擁立し、共産主義、とくに中国共産主義の進出を抑止しうるアジア独自の国際秩序をつくり上げようとするものでした。それは具体的には、重点的に日本の工業力を再建・増強するために、原料供給地や市場としてその他のアジア諸地域(特に韓国・台湾)を日本に結びつけ、非共産圏アジアに一種の「垂直的国際分業」システムを機能させる。そのことによって、米国が過重な財政負担を負うことなしに、共産主義に対抗しうる強固な地域態勢を実現しようとしたものでした。1948年頃から始まった米国の対日占領政策の背景にあって、これを支持・推進したのが米国のアジア地域主義構想でした。」(198-199頁)