【史料】『満支旅行年鑑』における新京の記述について

ジャパン・ツーリスト・ビューロー(東亜旅行社、東亜交通社)から出版されていた『満支旅行年鑑』は昭和14年版~昭和19年版まであるが、そこでは各都市の紹介及び戦跡に関する解説が掲載されている。各版ごとに記述内容は若干異なるが大筋はほぼ同じである。ここでは昭和18年版における新京に関する記述を引用しておく。

※他やること
 →各版の『満支旅行年鑑』における観光・旅行の正統化の比較
 →各版の『満支旅行年鑑』における新京の観光バスルートの比較

都市

新京(『満支旅行年鑑【昭和18年】』東亜旅行社奉天支社 、1942年、53頁)

附近一帯はもと蒙古郭爾羅斯前旗に属する放牧地で漢人の開墾によつて初めて新京の北方十余里に「長春堡」が出来、清国道光5年、現城内に長春庁が置かれたのに始まり、爾来満洲国の創建まで「長春」の名を伝承した。然し当時微々たる一小邑も1899年露国によつて寛城子に停車場を設置するに及んで漸く経済的価値を認められ一躍人口6,7万を算するに至つた。日露戦役後は日本側によつて城内、寛城子間の荒原を買収し遂に今日の如く殷盛な旧満鉄附属地を造り上げたのである。一方支那側は商埠地を設定し商民の移住を奨励するに及んでここも城内に劣らぬ繁盛を呈し遂に旧稱城内、商埠地、附属地の三を以つて今日の大市街を完成するに至つた。満洲建国後は一躍国都となり人口百五十万を要する大都市計画をして着々その緒につかしめ政治、経済、軍事、交通の中心地として実質上首都の面貌を兼ね備え建国10周年を迎へたる今日その人口も55万5千余人(内地人13余万人)の多きに達した。


(視察)「定期観光バス」、大人一名3円、小人1円50銭 (コース)、駅-ヤマトホテル-満鉄支社-新京神社-中央通-児玉公園-関東軍司令部-軍人会館-忠霊塔-西広場給水塔-三不管-寛城子戦跡-寛城子-日本橋通-日本橋公園-旧国務院-宮廷府-小盗広場-大馬路-清眞寺-般若寺-大同広場-協和会首都本部-大同公園-民生部-紅卍会-動物園-総合運動場-中央観象台-中央警察学校-南嶺戦跡-大同学院-建国廟-建国大学-南湖-総合法印-順天大街-国務院-宮廷御造営地-独伊公使館-満映スタヂオ-国務院総理官邸-興安大路-帝国領事館-駅。3月より11月迄毎日9時、12時、15時、三回運行、冬期10時、14時2回運行、大人3円小人軍人半額、所要3時間)但満語説明付バスは大人1円50銭、小人75銭。


貸切バス(30人乗)3時間50円、馬車及人力車1区5百米5銭の割1時間1円、観光用馬車4時間3円、小人2円(日満案内人付)


(土産)豆麺、香木人形、新京人形、スツポンホルモン葡萄酒、陶磁器、満洲煎餅、忠霊塔煎餅、満洲菓子、満洲漬、国都そうめん、孝子餅、協和豆


(視察斡旋)東亜旅行社(駅前、三中井百貨店内、ヤマトホテル内、泰発合内)駅構内鉄道案内所、新京観光協会(駅前)、満洲事情案内所(中央通六)

名勝・旧蹟

新京附近(『満支旅行年鑑【昭和18年】』東亜旅行社奉天支社 、1942年、84頁)

【新京】

百三十余年前、清の嘉慶七年蒙古郭爾羅斯前旗に属する放牧地で漢人の開墾によつて初めて現在の新京の北方6粁半余に「長春堡」が出来、清国道光五年、現城内に長春庁が置かれたのに始まり爾来満洲国の創建まで長春の名を伝承した。

長春城】

今から六十数年前、同治4年に匪賊防備の為め市民の醵金により周囲十粁の不規則な長方形の城郭を築いたのであるが現在城壁の大部分は破棄してゐる。

【石碑嶺】

駅の東方十二粁、ここには八百年前から在るといふ金の創業の功臣完顔婁室の古墳があり今は碑文の亀跌が三箇遣つてゐる。


東新京附近(『満支旅行年鑑【昭和18年】』東亜旅行社奉天支社 、1942年、86頁)

【清眞寺】

旧商埠地にあり清の道光22年の建造に係り俗に回々塔と呼び結構雄大である。

【大城子】

東新京の北10粁、往昔高麗の駐兵した処と謂ふ。周囲2粁の土墻を繞らしている。

戦蹟

南嶺(『満支旅行年鑑【昭和18年】』東亜旅行社奉天支社 、1942年、115頁)

附属地から南方4粁余の丘陵で、兵営は前清朝時代咸豊年間(8、90年前)に設けられたるものにして事変当時支那砲兵、歩兵各1旅、外に機関銃隊、迫撃砲隊、輜重兵隊、自動車隊等4千4百の軍隊があつたが、昭和6年9月満洲事変勃発するや、長春駐屯歩兵第4連隊第2大隊長石黒少佐は9月19日午前3時から行動を起し、二個中隊及び機関銃隊1個小隊を率ゐて先づ砲兵営を攻略し、折柄来援の公主嶺独立守備隊第1大隊と協力して歩兵営に向ひ激戦9時間の後南嶺一帯の全陣地を占領した。此の戦闘に於ける我軍の損害は守備隊側倉本少佐を初め戦死38名、負傷39名、4連隊側戦死5名、負傷16名、合計戦死43名、負傷55名で敵の損害は3百余名に上つた。

寛城子(『満支旅行年鑑【昭和18年】』東亜旅行社奉天支社 、1942年、115頁)

寛城子の兵営は曾て露国兵営であつたが、其の後吉林督軍麾下の兵営となつた。大正8年7月寛城子街道を通行中の一満鉄社員に対し支那兵多数が暴行を加へ、瀕死の重傷を負はしたのに端を発し日支両軍の衝突となり所謂寛城子事件を惹起した。昭和6年満洲事変に際しては、我が歩兵第4連隊本部が19日未明武装解除に向ひたるに敵は之に抵抗し、戦闘は午前5時から11時まで継続した、我軍の戦死24名、負傷43名を出し、敵は兵数6百名の中戦死傷約40名、捕虜386名を算した。寛城子、南嶺とも敵は白旗を掲げて降伏を装ひながら、不意の攻撃を行ひたる為我軍の損害は比較的大であつた。