Heritage tourism(005)【巡検】「植物園における動植物の文化的意味」

本日のヘリテージツーリズム論演習は植物園のフィールドワークでした。
課題は植物園における動植物がどのような文化的意味を持つかを考察すること。
(あと植物園内における竪穴住居跡を見つけること)
単純に自然遺産として考えるのではなく文化的文脈に位置付け、複合遺産とすることが肝要なのだとか。


目次

(1)ライラック

 植物園のライラックは札幌最古のものである。どのような文化的意味があるかと問われれば、明治期北海道におけるアメリカによるプロテスタント伝道と答えることができるであろう。パンフレット『北海道大学植物園』(北海道大学北方生物圏フィールド科学センター植物園、2018)では、植物館の旧事務所、現在の宮部金吾記念館の正面左にスミス女学校の創始者サラ・C・スミスがアメリカから持参したものであると紹介されている。
 また、この札幌最古のライラックの木の下には、ある意外なモノが埋まっている。それは何かというと、なんとソリである。なぜライラックとソリが関係しているのであろうか。このライラックを植えた時のエピソードを語る資料を発見したので、引用しておこう。「この木は明治のある年の春早く、まだ雪のあるうちにソリで運ばれて来た。当時でも結構大きな株だったらしく、ソリから下ろせず、いったん植穴へソリごと入れて、ということになったが、これがまたあんまりいい知恵ではなかったと見えて、今度はソリが木の下から抜けなくなってしまい、とうとうソリごと植え込んだという。だから、事務所前(※引用者註-現在の宮部金吾記念館)のこの木の下には、ソリが埋まっているはずだというので、いつか確かめてみたいものだと考えている」(辻井達一『北大植物園』、札幌 : 北海道テレビ放送、1976、21-22頁)。植物園の歴史を学ぶことも出来るのである。

(2)オオバナノエンレイソウ

 植物園に咲く白い花。それがオオバナノエンレイソウである。この花は大学のシンボルマークとなっているという文化的価値がある。大学のシンボルマークになった理由として、植物園のwebサイトでは「大学キャンパスでよくみられること」を挙げているが、もう少し詳しい理由もある。「この植物は、染色体が大きくていやすいことと、種間雑種ができやすいことから細胞学、細胞遺伝学、進化学などの材料として使われる。校章になっているぐらい大学には縁が深く、理学部の生物教室では昔から実験材料としてきたし、植物園もその保存の一端を担って、標本園をつくったのである」(辻井達一『北大植物園』、札幌 : 北海道テレビ放送、1976、29頁)。
 以上のように、ただキャンパスにたくさん生えているだけでなく、学問的に大学に貢献してきたという理由があったのである。
【引用サイト】
オオバナノエンレイソウ」(https://www.hokudai.ac.jp/fsc/bg/b0510.html 2019年5月15日22時16分閲覧)

(3)ドイツトウヒ

 植物園の博物館前にはドイツトウヒ(マツ科トウヒ属)があるが、これは宮沢賢治と関係があり、日本近代文学的な意味がある。宮沢賢治1924年5月18日から23日まで花巻農学校の修学旅行の引率で、北海道を訪れている。札幌には5月20日に到着し、植物園を見学している。宮沢賢治は『修学旅行復命書』を残しているが、その中の植物園に関する描写は以下の通り。「午后一時四十分今次旅行の眼目札幌市に着く。先づ駅前山形屋旅館に宿泊を約し直ちに大学附属植物園に行く。〔……〕植物園博物館、門前より既に旧北海道の黒く逞き楡の木立を見、園内に入れば美しく刈られたる苹果青の芝生に黒緑正円錐の独乙唐檜並列せり。」(下線は引用者)
 宮沢賢治はドイツトウヒにすこぶる関心があり、『歌稿B』でもドイツトウヒに関する以下の二つの歌を残している。
「わがうるはしき ドイツたうひよ (かゞやきの そらに鳴る風なれにもきたれ)」(歌稿B461)
「わがうるはしき ドイツたうひは とり行きて ケンタウル祭の聖木とせん」(歌稿B461a462)
盛岡タイムスのwebサイトでは、特に後者の歌について、メンタウル祭が『銀河鉄道の夜』にも登場する重要な祭りであり、ドイツトウヒはクリスマスツリーにも使用されるので聖木とみなしており、ドイツトウヒ対する思いは明瞭であると評価を下している。
【参考・引用サイト】
「修学旅行復命書 宮沢賢治」(http://www.swan2001.jp/oa002.html 2019年5月15日21時23分閲覧)
「修学旅行 詩群」(http://www.ihatov.cc/series/shugaku.html 2019年5月15日21時23分閲覧)
「〈賢治の歌〉559 望月善次 わがうるわしのドイツトウヒよ」(http://www.morioka-times.com/news/2006/0610/26/06102606.htm 2019年5月15日21時23分閲覧)
「〈賢治の歌〉560 望月善次 わが麗しきドイツトウヒ」(http://www.morioka-times.com/news/2006/0610/27/06102707.htm 2019年5月15日21時23分閲覧)

(4)オットセイ

 植物園の中央部には博物館があり、主に北海道に関する動物や絶滅してしまった動物の剥製が展示されている。この中にオットセイが展示されているが、この動物はどのような文化的価値があるだろうか。それはアイヌ交易を挙げることが出来る。近世、松前藩では商場知行制において交易船が出され、オットセイも交易品となった。また場所請負制になってからはオットセイ漁の請負も行われた。オットセイは精力剤として珍重され、高価で取引されたのである。
 オットセイを精力剤とするという逸話で有名なのが、徳川家斉である。11代将軍家斉は16人の妻妾と55人の子女をもうけたことで知られているが、家斉が精力剤の一つとして使っていたのがオットセイだったのである。アイヌ交易と徳川家の将軍をリンクさせるという文化的意味を持つ、それがオットセイなのである。

(5)樺太犬タロ

 上記博物館には樺太犬の剥製の展示もあり、博物館の突き当りに『南極物語』で一躍有名になったタロの剥製が展示されている。2018年には群馬県館林市をモチーフとする女子高生たちが南極に行くアニメーションが話題となったので、現在南極に聖地巡礼するのはホットな話題と言えよう。その一方で、このタロの剥製からは当時の国際情勢を学ぶことが出来る。タロとジロは1956年に第1次南極観測隊隊員に連れられて、犬ぞり用の犬として南極に行ったわけだが、この南極観測に参加するのにひと悶着あったのである。国際地球観測年の1955年、日本は南極観測参加を望むも、国際社会から強い反対を受けたのであった。1951年にサンフランシスコ条約により主権を回復したものの、未だ東側諸国とは講和しておらず、国際連合にも加盟していなかったのである。そうした逆境を跳ね返してでの南極観測への参加であった。
 ジロは第4次越冬中に死亡し、剥製は上野の国立博物館に展示されるが、タロは生存し日本へ帰った。そして植物園で9年間もの余生を過ごしたのであった。タロは老衰により死去後、剥製となり植物園内の博物館に展示されることになった。このタロとジロの剥製の展示を巡り、二匹を一緒にしようとしばしば問題になることも、現在の博物館所蔵の問題にもつながる所があり、それを考えさせるきっかけになることにも文化的な意味があると言えよう。