- 本論の趣旨
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前提
- 戦前における軍事拠点のイメージを保持し続ける呉
- 呉における戦前と戦後の断絶面
1 平和産業港湾都市という都市像
都市復興と平和
- 「平和」を含むスローガンの発生とその過程
- 旧軍施設の転換に「平和」が利用された背景
軍転法と戦略的な「平和」利用
- 鈴木術による戦略的「平和」利用
- 鈴木は上記要綱について「[……]重点は国有財産の処理[……]」と説明。あくまで国有財産すなわち旧軍用財産の処理が眼目であり、それを可能するスローガンとして「平和」(平和転換・平和都市)を戦略的に利用している
軍転法の範
- 軍転法の趣旨は都市の建設ではなく転換
- 鈴木市長は「新しく記念都市を建設するのではなく旧軍港都市を平和都市に転換する」と述べ、広島のような平和記念都市の「建設」を目的としたものではないとはっきりと表明していた
- 新たに「建設」しなくとも「転換」すれば平和都市になるという論理
- 具体相は旧軍用財産の転換であり、軍需産業とみなされてきた造船や鉄鋼といった産業を平和産業と読み替え、自由に活用することができる環境を整備すること
- 「平和」な都市を目指すスローガンを掲げながらも戦前との連続を保つ。
- 軍転法はあくまでも旧軍用財産の払い下げが目的だった。
- 旧軍用財産を決して軍事目的で利用しないことを印象づけるためにも「平和」な都市像を掲げることは不可欠だった。
- 軍転法で語られる「平和」の意味は軍港都市に特有の論理が備わったもの。
軍転法の成立
軍転法を祝す
軍転法の成立前後
- 軍転法公布
- 軍転法は1950年6月28日に公布、翌51年から国有財産の無償譲与ないし有償譲渡(民間)が始まり、平和産業港湾都市をめざす転換は着々と進められていった。
- 朝鮮戦争と逆コース
- 自衛隊誘致
- 自衛隊歓迎祝賀ムード
平和産業港湾都市の命脈
- 呉市長期基本構想にみられる平和産業港湾都市
- 平和産業港湾都市という都市像は、旧軍港都市のなかで、市是ないしスローガンとして、軍転法の適用以外の場面においても長く、そして広く利用され続けた。
- 1973年、1985年策定の呉市長期基本構想では将来都市像として「活力と潤いのある平和産業港湾都市」が掲げられた。
- 1997年に策定された呉市長期基本構想では、「「平和産業港湾都市」の理念を継承しつつ、新しい時代に向けた呉市の将来都市像」が設定され、その連続性が意識された都市像が提示されている
- 2011年に策定された呉市長期基本構想では平和産業港湾都市という文言がまったく登場しなくなった
- ごく近年にいたるまで平和産業港湾都市はあらゆる市政に関連する市の中心的な理念として位置づけられていた。様々な都市整備の背景ないし骨格部分にも、平和産業港湾都市という都市像が影響を与えていた。
2 「れんが」と大和ミュージアム
「れんが調」のまちづくり
- 軍港都市の連続性に関する軍転法と都市景観の違い
- 呉市はそもそも戦前との連続性を意識した都市像を掲げて戦後の都市整備にあたってきたので、軍港都市の歴史を意識したまちづくりというのは、施策の一貫性としてうなずけるものである。
- しかし軍転法で狙った主たる連続性が産業構造だったのに対し、景観は別の次元となる。
れんがどおり
- 「れんが調」整備のはじまり~中通商店街(れんがどおり)~
- 中通商店街のレンガ色がその後の都市整備に与えた影響
- 建設省(当時)の「都市景観形成モデル事業」の指定(1983)を受け実施された市街地中央部の一連の整備
- 最大事業は蔵本通りの整備→計画・設計担当者山本靖雄は戦前からレンガ造りの建物が多くデザイン要素として溶け込んでいたことを理由に、蔵本通りの歩道面の舗装材として赤煉瓦を採用。
- 戦前からの連続性が意識されていると同時に「れんが」が市街地部の景観の「デザイン要素」として認められていたことがわかる。
- 統一的な整備の基調が「れんが」だった。
- 建設省(当時)の「都市景観形成モデル事業」の指定(1983)を受け実施された市街地中央部の一連の整備
歴史の継承と「れんが調」
- 「れんが調を基調」に整備された各土木建築が海軍の歴史を想起させる可視的装置(モニュメント)として位置づけられていく過程
- ①近代期に作られた赤煉瓦造建築物と、1970年代以降に整備された「れんが調」の構造物(ないし都市景観全体)とが、連続的に捉えられた
- 素材や史実に基づく真正性はなくとも色調やデザインの歴史的連続性によって「都市の記憶」の顕現装置として認定しうる
- 1970年代以降の整備であっても戦前の都市の記憶を想起させる装置として認められうる
- ②海軍イメージの拡張
- 「れんが調」の整備は呉駅北側の市街地部を中心に実施されたが、「れんが調」整備が「海軍の記憶」の顕現装置となる時、本来は赤煉瓦造建築物が並ぶような場所ではなかった市街地部が、戦前も「れんが」のまちなみ、すなわち海軍・海軍工廠のまちなみだったと想起される
- 海軍・海軍工廠の敷地外だった市街地中心部で展開していた一般住民の日常生活が「海軍の記憶」をたずさえた「れんが」色に一様に塗りつぶされる
- 空襲による被害が甚大だった市街地部(=「呉中央景観づくり区域」)には、海軍に関係のない近代赤煉瓦造建築物は現存しない
- 記憶装置の地理的展開
- 戦後、とくに1970年代以降の都市整備によって「れんが(れんが調)」が都市(市街地)全体に拡散することで、戦前の都市構造における市街地と海軍用地との空間的断絶が埋められ、均質化されていった
- ①近代期に作られた赤煉瓦造建築物と、1970年代以降に整備された「れんが調」の構造物(ないし都市景観全体)とが、連続的に捉えられた
「れんが」と「大和」
「「大和」におもう」シンポの準備経緯
- 当初のプラン
- 1995年5月28日呉レンガ建造物研究会総会では、第5回赤煉瓦ネットワーク総会について「基調講演等も含め、市内に多数現存する煉瓦建築物の保存・活用やこれらの施設が産業技術面に果たした役割などを分かりやすく取り上げる予定」だった
シンポジウムの反響
- 主催者にとっては不本意であり不満
- 呉レンガ建造物研究会では、総会終了後、設立趣意書や会則に書かれた活動目標に立ち返る形での組織運営が呼びかけられており、呉大会でのシンポジウムは会の趣旨に沿わない不本意なテーマであった。
- 講演・シンポジウムでは「れんが」(ないし遺産としての赤煉瓦建築物)について語られることはほとんどなく、シンポジウムの締め括りでも「れんが」についての言及はない。
- 共催者呉市にとっては成功
- シンポジウムは呉市が推進する大和ミュージアム建設に一定の役割を果たす。
- とりわけ市民の声によってシンポジウムの継続開催が要望されたことは、呉の歴史を語る際のシンボルとして「大和」を位置づけていくための大きな後ろ盾となる。
- 最終的に「「大和」におもう」シンポジウムは2004年11月の第9回まで継続され、翌年4月に大和ミュージアムがオープンする
- 10年にわたるシンポジウムの開催によって「戦艦「大和」を大和ミュージアムの大きなテーマにする意味が裏付けられたこと」、そして「偏見や先入観なしに率直に「大和」を受け止める機運が出て来たこと」が「大和ミュージアム建設への幅広い理解と協力につながった」と市長自身が総括している
博物館建設の前史
- 1980年
- 呉市、「海」に関する県立博物館の市内への建設を要望する
- 昭和末期
- 具体的に博物館建設が動き始める
- 当初は海洋に関する自然系博物館、ないし船や海に関する博物館が検討されたが、呉独自の博物館が模索される。
- 1990~92年
- 2年にわたる専門家の調査・検討の結果、「造船技術に着目した博物館の建設」を目指す
- 1993年
- 9月の市議会での佐々木有市長(当時)の答弁→海軍や「大和」「長門」などの呉で建造された艦船が呉の歴史を代表するものであり、博物館に不可欠な存在であることが述べられる
- この時点で「広く海に関連する博物館」が想定されており、基本構想がうたう造船技術に特化する博物館という明確さは失われている
- 呉であれば海軍関係は外せないという意識が強いことが分かる
- 9月の市議会での佐々木有市長(当時)の答弁→海軍や「大和」「長門」などの呉で建造された艦船が呉の歴史を代表するものであり、博物館に不可欠な存在であることが述べられる
博物館と「れんが」
- 1994年
- 千田武志により、既存の赤煉瓦造建築物を活用する、もしくは有機的に結び付けて博物館群にするといった構想も登場する
- 1995年
- 海事博物館設立構想 → 博物館を核として「レンガ建物等歴史遺産が多く残るまち全体を展示室にする」といったいわゆる「まちなか博物館」「まちじゅう博物館」構想が述べられる
- 県費での博物館設立の頓挫
- 市立での設立構想へ転換
- 1998年
- 基本計画制定 → 施設のイメージ図がて提示され、赤煉瓦造建築物の外装や様式を模した「れんが調」の外観で表現されている。旧呉鎮守府庁舎との類似性は明らかで、旧海軍施設の赤煉瓦造建物がモチーフの一つとして考慮された
- 2001年6月
- 基本設計 → 建物の外装がこれまでの「れんが風の外観」から「ガラス張りの現代建築」へと変更される。ガラス張り以外の部分は「れんが調」に整えられているが、ガラス張りは最終的な建設まで引き継がれ、現在に至る。
- 呉のまちなみとの調和という点でみれば、ガラス張りへの変更は大きなものであり、市議会でも多くの質疑が出されたが、「れんが調」からガラス張りへの変更についての答弁は無く、その理由は公表されず。
- 基本設計 → 建物の外装がこれまでの「れんが風の外観」から「ガラス張りの現代建築」へと変更される。ガラス張り以外の部分は「れんが調」に整えられているが、ガラス張りは最終的な建設まで引き継がれ、現在に至る。
「れんが」の共有
- 許される「れんが調」
- 旧海軍・海軍工廠を想起させるのに十分な「れんが調」の建造物が当初予定されていたこと、最終段階においてもガラス張り以外の部分は「れんが調」に整えられていることについて公式の場で何も議論がない
- 反対派の市民団体からも、展示施設が「れんが風の外観」として設計されたことについての反対意見や批判は確認できない
「れんが」のまち
- 海軍の遺産をめぐる、呉のある種の独特さ
- 「れんが」はその記憶が追認されることはあっても再検証される機会が想定されず、住民のなかに当たり前に浸透している
- 呉は全国的な近代化遺産のブームが起きるよりも早い段階から「れんが」に注目していた。それは近代期に造られた建築物の発見や活用ではなく、赤煉瓦ないし「れんが調」素材を用いた道路や公共施設の新たな整備であり、それまで「れんが」景観がなかった場所への新たな創造だった。
- そこには海軍の記憶が横たわっているが、「れんが調」のまちづくりが市議会で「海軍の町としてのモチーフ」として評価され多数の政党から支持されている。
- 呉の公共工事の実績からみても、それに関する評価からみても、海事博物館の外装への利用は、それまでの流れに沿ったものであり、まったく違和感のないものであった。「海軍のまち」にふさわしい外装は、展示内容を承認する者にも批判する者にも、当たり前のように受け入れられていった
- 新たな整備があまりにもきわめて自然に受け入れられている「れんが」は、呉のなかで歴史化されていない現在進行形の素材であり、「まちの記憶」を象徴するモニュメントとしては十分に機能していない
「平和」の二面性
- 技術と歴史の連続/断絶を正当化する為の「平和」
- 呉の「平和」は①「戦前から連続する技術の「平和」利用という言説」と、②「戦時中の諸様相と戦後のそれとを比較し戦前・戦後の断絶性を捉える「平和の尊さ」の言説」の二つが絡み合ったものとなっている
- ①技術の「平和」利用は、軍事利用目的の断絶を訴えるためのものだが、産業ないし技術の連続性を保証するための言説であり、この場合の「平和」は突き詰めていけばいくほど断絶を主張することは難しくなる。
- ②歴史の「平和」タイプの言説は、戦前の異常さを際立たせれば際立たせるほど、主張は強固になり、その意味で積極的に断絶性を見出していく
- 呉の「平和」は①「戦前から連続する技術の「平和」利用という言説」と、②「戦時中の諸様相と戦後のそれとを比較し戦前・戦後の断絶性を捉える「平和の尊さ」の言説」の二つが絡み合ったものとなっている
平和産業港湾都市の強調
- 海事博物館における二つの平和の矛盾
- 海事博物館構想は、完全に一致することは無い、技術の連続と歴史の断絶という二つの「平和」をたくみに使い分けながら進められていった
- 平和利用されている技術の前史をさかのぼれば断絶しているはずの海軍に行き着いてしまい、その展示は(断絶して得られたはずの)平和を脅かす存在と映る
- 戦後に訪れた「平和の尊さ」をふまえながら、戦前に培われた技術が戦後に発展して現在の科学技術にいたるところを見るとき、その「平和の尊さ」に危うさを読み取ることになる。
- 呉らしい博物館を目指した海事博物館にとって、戦前との断絶面だけを叫ぶことも、また連続性だけを強調することも、どちらもできないという呉の地域的特異性をいかに表現するかがポイントだった
- 海事博物館構想は、完全に一致することは無い、技術の連続と歴史の断絶という二つの「平和」をたくみに使い分けながら進められていった