上杉和央「連続と断絶の都市像-もう一つの「平和」都市・呉」(『複数の「ヒロシマ」 記憶の戦後史とメディアの力学』、青弓社、2012年、103-138頁)

  • 本論の趣旨
    • 呉市は、海軍が培った技術を用いるという連続性と軍・軍需目的とは異なるという断絶性の両面性を保有している。この矛盾を解消させる手段が平和産業港湾都市であり、戦前との連続性・断絶性どちらを主張する時にも使用できる便利な概念であった。
    • 平和産業港湾都市という概念は、大和ミュージアムの展示においても連続性と断絶性の矛盾を解消する役割として機能する。
    • 平和産業港湾都市の「平和」は便利な看板であり、軍需から「転換」するという名目で、海軍・海軍工廠で培われた技術・産業に依存した都市復興・都市計画を行った呉市は、都市再建の初期条件としては戦前・戦後の連続性があった。

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前提

  • 戦前における軍事拠点のイメージを保持し続ける呉
    • 戦前広島県には広島鎮台(第5師団)と呉鎮守府が置かれていた。広島は戦前の軍都から大きく都市像を変貌させたが、呉は相変わらず軍港都市のイメージを保持し続けている。
    • 「呉」は戦後も「呉」として連続している。その理由には戦後、旧海軍用地に海上自衛隊がほぼ横滑りする形で入ってきた事実だけでなく、都市全体で「海軍の町」だった(である)ことをアピールしているところにも起因する。

  • 呉における戦前と戦後の断絶面
    • 空襲によって戦前・戦後の都市景観が断絶させられたのであり、そこからの復興が最重要課題となる
    • 呉市の都市復興・都市計画は、特別法として制定された旧軍港都市転換法(1950年6月28日公布・施行)を利用してなされていった

  • 各節であつかう問題
    • 第1節 呉の戦争被害と戦後復興について
      • 断絶を経験した呉は、戦前の都市(都市像)を回復しようとしたのか、それとも戦前とは違う都市像を求めたのか
    • 第2節 復興における都市の記憶の問題

1 平和産業港湾都市という都市像

都市復興と平和

  • 「平和」を含むスローガンの発生とその過程
    • 1945年11月 鈴木登(みのる)呉市長の弁→「現在市として独自の立場から計画を進めており、平和産業都市できればこれに併せて文教都市として再建する方針」である
    • 同月 市長・市議会代表が上京、旧海軍工廠跡に「民営の平和産業工場」を開設できるよう陳情をおこなう

  • 旧軍施設の転換に「平和」が利用された背景
    • ポツダム宣言→第11項:軍需産業以外の産業維持、第12項:平和的傾向を有した政府樹立の要求、第9項:軍隊の解体と旧軍人への平和的・生産的生活への機会提供
    • GHQの政策→1945年9月22日、11月29日 軍需産業から平和産業への転換を進め、産業を促進するように連合国軍司令部から命令が出されている

  • 「平和」を利用することは呉にとって不可避
    • 軍港都市の場合、軍隊と基幹産業たる軍需産業の完全否定は致命的であり、生き残る方策として「平和」ないし平和産業を強く訴えていくことは不可避な状況

軍転法と戦略的な「平和」利用

  • 鈴木術(てだて)呉市長と平和産業港湾都市
    • 鈴木術こそが軍転法の成立過程に深く関与した市長であり、平和産業港湾都市という都市像は鈴木時代に作られた
    • 1949年4月「旧軍港地国有財産払下に関する誓願」が国会で採択される
    • 同年10月「旧軍港都市転換法案要綱」決定→平和宣言が付帯され「平和産業都市、国際貿易港として更生せんこと」を宣誓

  • 鈴木術による戦略的「平和」利用
    • 鈴木は上記要綱について「[……]重点は国有財産の処理[……]」と説明。あくまで国有財産すなわち旧軍用財産の処理が眼目であり、それを可能するスローガンとして「平和」(平和転換・平和都市)を戦略的に利用している

軍転法の範

  • 軍転法の趣旨は都市の建設ではなく転換
    • 鈴木市長は「新しく記念都市を建設するのではなく旧軍港都市を平和都市に転換する」と述べ、広島のような平和記念都市の「建設」を目的としたものではないとはっきりと表明していた
    • 新たに「建設」しなくとも「転換」すれば平和都市になるという論理
    • 具体相は旧軍用財産の転換であり、軍需産業とみなされてきた造船や鉄鋼といった産業を平和産業と読み替え、自由に活用することができる環境を整備すること
    • 「平和」な都市を目指すスローガンを掲げながらも戦前との連続を保つ。
    • 軍転法はあくまでも旧軍用財産の払い下げが目的だった。
    • 旧軍用財産を決して軍事目的で利用しないことを印象づけるためにも「平和」な都市像を掲げることは不可欠だった。
    • 軍転法で語られる「平和」の意味は軍港都市に特有の論理が備わったもの。

軍転法の成立

  • 軍転法の「名分」
    • 軍転法の「名分」とは軍港都市に蓄積された旧軍用財産と技術力を戦後日本の再建に活用することへの意義であり、技術という点での戦前・戦後の連続性の保持。
    • 軍転法の「名分」を端的に示したのが、「平和産業港湾都市」であり、この「名分」が承認されることではじめて「転換」をはかる特別法への道が開けた。

軍転法を祝す

  • 市民の圧倒的な支持
    • 市民たちは軍転法の内容をよく知らないまま、そして何を祝っているのかよくわからないまま、祝祭気分にひたっていた。
    • 軍転法の賛否投票は1950年6月4日に行われ、最終的な投票結果は投票総数8万7993票のうち反対は3523、無効3115であり同法に対する呉市民の熱意の高さを物語る結果となった。投票総数に占める賛成票は92パーセント、投票率は82.1パーセント、有権者に対する賛成比率は76パーセントだった。
    • 投票結果によるならば、呉市では市民の圧倒的支持のもとで軍転法が成立した。

軍転法の成立前後

  • 軍転法公布
    • 軍転法は1950年6月28日に公布、翌51年から国有財産の無償譲与ないし有償譲渡(民間)が始まり、平和産業港湾都市をめざす転換は着々と進められていった。

  • 朝鮮戦争と逆コース
    • 軍転法公布の3日前には朝鮮戦争が始まり、近隣の国際情勢の緊迫度が一気に増すという国際情勢の大きな変化があった。海上警備隊海上自衛隊ができ、呉にも旧海軍施設を利用する形でこれらの組織が設置される。最終的に海上自衛隊呉地方隊が誕生したのは1954年7月1日だった。
    • 平和産業港湾都市という呉の新たな都市像は、その像を担保する法律が公布された最初期からすでに揺らぐ外的要因にさらされていた。

  • 自衛隊誘致
    • 自衛隊の進出、とりわけ教育隊が呉港の中心地区だった旧海兵団地区を利用することに対しては平和産業港湾都市の構築を大きく左右する問題であり議論がなされたが、朝鮮戦争の特需も終わり、経済低迷に直面していた呉市は、商工会議所を中心に自衛隊誘致を掲げ、市議会も誘致に傾くようになった。

  • 自衛隊歓迎祝賀ムード
    • 呉地方隊総監部の会長式(1954年10月1日)に際しては、海上自衛隊が中央音楽隊の市中行進や演奏会を開く一方、呉の主要な通りには歓迎幕やアーチ、立て看板が掲げられて開庁が歓迎され、さらには大名行列も繰り出して市中に祝賀ムードがただよった。軍転法を祝って4年、今度は平和産業港湾都市とは必ずしも整合しない状況に対して、祝賀空間が準備された。

  • 「平和」は看板に過ぎない
    • 軍転法成立6周年においては軍転法が骨抜きになり産業港湾自衛隊都市となったと評されたが、そもそも「平和」は看板にしか過ぎなかった。
    • 軍転法成立の過程にあった呉市の趣旨ないし思惑をふまえれば、「平和産業港湾都市」の実の部分は「産業」「港湾」であり、「平和」は時局に沿ったまさに「看板」であった。
    • 「産業」「港湾」の展開にとって重要な部分を教育隊が利用することに対しては大きな議論が起こったものの、海上自衛隊(ないしその前身)の呉市への展開そのものについては、それほどの衝突がみられなかった。

平和産業港湾都市の命脈

  • 呉市長期基本構想にみられる平和産業港湾都市
    • 平和産業港湾都市という都市像は、旧軍港都市のなかで、市是ないしスローガンとして、軍転法の適用以外の場面においても長く、そして広く利用され続けた。
    • 1973年、1985年策定の呉市長期基本構想では将来都市像として「活力と潤いのある平和産業港湾都市」が掲げられた。
    • 1997年に策定された呉市長期基本構想では、「「平和産業港湾都市」の理念を継承しつつ、新しい時代に向けた呉市の将来都市像」が設定され、その連続性が意識された都市像が提示されている
    • 2011年に策定された呉市長期基本構想では平和産業港湾都市という文言がまったく登場しなくなった
    • ごく近年にいたるまで平和産業港湾都市はあらゆる市政に関連する市の中心的な理念として位置づけられていた。様々な都市整備の背景ないし骨格部分にも、平和産業港湾都市という都市像が影響を与えていた。

2 「れんが」と大和ミュージアム

「れんが調」のまちづくり

  • 2010年策定「呉市景観計画」「呉市景観条例」
    • 景観計画では重点的な地区として7つの呉市景観づくり区域を設定。その一つに「呉中央景観づくり区域」と呼ばれる中心市街地がある。
    • 中心市街地の景観形成の目標は「歴史の継承と美しいまちなみの形成」。この景観形成の具体的な内容は、灰ヶ峰を背景に、軍港都市の歴史を継承した「れんが調」の美しいまちづくり。

  • 軍港都市の連続性に関する軍転法と都市景観の違い
    • 呉市はそもそも戦前との連続性を意識した都市像を掲げて戦後の都市整備にあたってきたので、軍港都市の歴史を意識したまちづくりというのは、施策の一貫性としてうなずけるものである。
    • しかし軍転法で狙った主たる連続性が産業構造だったのに対し、景観は別の次元となる。
      • 景観という可視的な連続/断絶を考えたとき、注目したいのは、まちづくりが「れんが調を基調」としてなされるとされていること
      • 呉市中心市街地は1945年7月の大規模空襲によって壊滅的な打撃を受けた。空襲によって戦前と戦後の市街地景観は断絶させられている。このような歴史的条件のため、中心市街地には近代建築としての赤煉瓦造建築物は皆無。
      • しかし2012年現在において、呉の中心市街地では赤煉瓦そのものだけではなく、レンガタイルの外観の建築物やれんが色のインターロッキングによる道路舗装など「れんが調」の整備をあちこちで見ることができる
        • 主要な「れんが調」整備→中通商店街(赤煉瓦:1978)、呉駅前広場(レンガタイル:1981)、呉市立美術館(レンガタイル:1982)とその周辺歩道(レンガタイル・赤れんが色のインターブロッキング:1982-1986)、蔵本通(赤煉瓦・レンガタイル:1987)と通り沿いの呉市立図書館(レンガタイル:1986)、呉市民文化ホール(レンガタイル:1989)。

れんがどおり

  • 「れんが調」整備のはじまり~中通商店街(れんがどおり)~
    • 呉市中心市街地での「れんが調」の整備は、中通商店街の整備に端を発する。
    • 平和産業港湾都市が長期基本構想のなかの都市像として位置づけられた1970年代以降の都市景観整備のなかではじまる。
    • 商店街整備の設計は筑波大学教授(当時)の池原謙一郎。
    • 赤煉瓦を用いた海軍施設というイメージが戦後の呉市民に浸透しており、そのイメージを重ねながら「れんがどおり」を位置づけようとしていた。

  • 中通商店街のレンガ色がその後の都市整備に与えた影響
    • 建設省(当時)の「都市景観形成モデル事業」の指定(1983)を受け実施された市街地中央部の一連の整備
      • 最大事業は蔵本通りの整備→計画・設計担当者山本靖雄は戦前からレンガ造りの建物が多くデザイン要素として溶け込んでいたことを理由に、蔵本通りの歩道面の舗装材として赤煉瓦を採用。
      • 戦前からの連続性が意識されていると同時に「れんが」が市街地部の景観の「デザイン要素」として認められていたことがわかる。
      • 統一的な整備の基調が「れんが」だった。

歴史の継承と「れんが調」

  • 「れんが調を基調」に整備された各土木建築が海軍の歴史を想起させる可視的装置(モニュメント)として位置づけられていく過程
    • ①近代期に作られた赤煉瓦造建築物と、1970年代以降に整備された「れんが調」の構造物(ないし都市景観全体)とが、連続的に捉えられた
      • 素材や史実に基づく真正性はなくとも色調やデザインの歴史的連続性によって「都市の記憶」の顕現装置として認定しうる
      • 1970年代以降の整備であっても戦前の都市の記憶を想起させる装置として認められうる
    • ②海軍イメージの拡張
      • 「れんが調」の整備は呉駅北側の市街地部を中心に実施されたが、「れんが調」整備が「海軍の記憶」の顕現装置となる時、本来は赤煉瓦造建築物が並ぶような場所ではなかった市街地部が、戦前も「れんが」のまちなみ、すなわち海軍・海軍工廠のまちなみだったと想起される
      • 海軍・海軍工廠の敷地外だった市街地中心部で展開していた一般住民の日常生活が「海軍の記憶」をたずさえた「れんが」色に一様に塗りつぶされる
        • 空襲による被害が甚大だった市街地部(=「呉中央景観づくり区域」)には、海軍に関係のない近代赤煉瓦造建築物は現存しない
      • 記憶装置の地理的展開
        • 戦後、とくに1970年代以降の都市整備によって「れんが(れんが調)」が都市(市街地)全体に拡散することで、戦前の都市構造における市街地と海軍用地との空間的断絶が埋められ、均質化されていった

  • れんが=戦前の海軍・海軍工廠との連続性のシンボル
    • 都市計画のなかで「れんが調」の整備が「歴史の継承」と明確に結びつけられたのは近年。
    • 呉における記憶装置の拡散は必ずしも行政による意図的・戦略的な結果ではなかった。
    • しかし「れんがどおり」の整備にあたって、中通商店街の人々はそこに歴史の連続性をみていたのであり、景観計画の整備以前の市議会でも「れんが調」のまちづくりが「海軍の町としてのモチーフ」として評価されるなど、実際には呉市の人々が戦前の海軍・海軍工廠との連続性を「れんが」にみていた。

「れんが」と「大和」

  • 赤煉瓦ネットワーク第5回総会開催(1995年10月)
    • 呉レンガ建造物研究会が総会に合わせて企画した総会はレンガとはほとんど関係のない「大和」に関する内容だった。
      • タイトルは「大和におもう-赤レンガのある風景。呉から」。早坂暁放送作家・小説家で当時「「戦艦大和」日記」を雑誌連載中)の基調講演、千田武志(当時呉市史編さん室主幹)をコーディネーターとして、辺見じゅん(『男たちの大和』(角川書店、1983年)の著者である)、田中優子(近世文化史研究者の)、西畑作太郎(「大和」建造に関わった造船技術者)、そして上記早坂を交えた「大和」に関するシンポジウムだった。

「「大和」におもう」シンポの準備経緯

  • 当初のプラン
    • 1995年5月28日呉レンガ建造物研究会総会では、第5回赤煉瓦ネットワーク総会について「基調講演等も含め、市内に多数現存する煉瓦建築物の保存・活用やこれらの施設が産業技術面に果たした役割などを分かりやすく取り上げる予定」だった
  • 朝日新聞社呉支局長の介入と呉市との共催化
    • スケジュールが合わず、予定していた内容での講演会開催が不可能となると、朝日新聞呉支局長渡辺圭司から「呉なら「大和」でやるべき」と言われ「大和」をテーマとするシンポジウム開催にかじを切った。
    • 呉市に対して「れんが」と「大和」というテーマでシンポジウムをしたい旨を打診したところ、ちょうど戦後50周年事業として諸企画を実施していた呉市と共催することになった。

シンポジウムの反響

  • 主催者にとっては不本意であり不満
    • 呉レンガ建造物研究会では、総会終了後、設立趣意書や会則に書かれた活動目標に立ち返る形での組織運営が呼びかけられており、呉大会でのシンポジウムは会の趣旨に沿わない不本意なテーマであった。
    • 講演・シンポジウムでは「れんが」(ないし遺産としての赤煉瓦建築物)について語られることはほとんどなく、シンポジウムの締め括りでも「れんが」についての言及はない。

  • 共催者呉市にとっては成功
    • シンポジウムは呉市が推進する大和ミュージアム建設に一定の役割を果たす。
    • とりわけ市民の声によってシンポジウムの継続開催が要望されたことは、呉の歴史を語る際のシンボルとして「大和」を位置づけていくための大きな後ろ盾となる。
    • 最終的に「「大和」におもう」シンポジウムは2004年11月の第9回まで継続され、翌年4月に大和ミュージアムがオープンする
    • 10年にわたるシンポジウムの開催によって「戦艦「大和」を大和ミュージアムの大きなテーマにする意味が裏付けられたこと」、そして「偏見や先入観なしに率直に「大和」を受け止める機運が出て来たこと」が「大和ミュージアム建設への幅広い理解と協力につながった」と市長自身が総括している

博物館建設の前史

  • 1980年 
    • 呉市、「海」に関する県立博物館の市内への建設を要望する

  • 昭和末期
    • 具体的に博物館建設が動き始める
    • 当初は海洋に関する自然系博物館、ないし船や海に関する博物館が検討されたが、呉独自の博物館が模索される。

  • 1990~92年
    • 2年にわたる専門家の調査・検討の結果、「造船技術に着目した博物館の建設」を目指す

  • 1993年
    • 9月の市議会での佐々木有市長(当時)の答弁→海軍や「大和」「長門」などの呉で建造された艦船が呉の歴史を代表するものであり、博物館に不可欠な存在であることが述べられる
      • この時点で「広く海に関連する博物館」が想定されており、基本構想がうたう造船技術に特化する博物館という明確さは失われている
      • 呉であれば海軍関係は外せないという意識が強いことが分かる

博物館と「れんが」

  • 1994年
    • 千田武志により、既存の赤煉瓦造建築物を活用する、もしくは有機的に結び付けて博物館群にするといった構想も登場する

  • 1995年
    • 海事博物館設立構想 → 博物館を核として「レンガ建物等歴史遺産が多く残るまち全体を展示室にする」といったいわゆる「まちなか博物館」「まちじゅう博物館」構想が述べられる

  • 県費での博物館設立の頓挫
    • 市立での設立構想へ転換

  • 1998年
    • 基本計画制定 → 施設のイメージ図がて提示され、赤煉瓦造建築物の外装や様式を模した「れんが調」の外観で表現されている。旧呉鎮守府庁舎との類似性は明らかで、旧海軍施設の赤煉瓦造建物がモチーフの一つとして考慮された

  • 2001年6月
    • 基本設計 → 建物の外装がこれまでの「れんが風の外観」から「ガラス張りの現代建築」へと変更される。ガラス張り以外の部分は「れんが調」に整えられているが、ガラス張りは最終的な建設まで引き継がれ、現在に至る。
      • 呉のまちなみとの調和という点でみれば、ガラス張りへの変更は大きなものであり、市議会でも多くの質疑が出されたが、「れんが調」からガラス張りへの変更についての答弁は無く、その理由は公表されず。

「れんが」の共有

  • 許される「れんが調」
    • 旧海軍・海軍工廠を想起させるのに十分な「れんが調」の建造物が当初予定されていたこと、最終段階においてもガラス張り以外の部分は「れんが調」に整えられていることについて公式の場で何も議論がない
    • 反対派の市民団体からも、展示施設が「れんが風の外観」として設計されたことについての反対意見や批判は確認できない

「れんが」のまち

  • 海軍の遺産をめぐる、呉のある種の独特さ
    • 「れんが」はその記憶が追認されることはあっても再検証される機会が想定されず、住民のなかに当たり前に浸透している
    • 呉は全国的な近代化遺産のブームが起きるよりも早い段階から「れんが」に注目していた。それは近代期に造られた建築物の発見や活用ではなく、赤煉瓦ないし「れんが調」素材を用いた道路や公共施設の新たな整備であり、それまで「れんが」景観がなかった場所への新たな創造だった。
    • そこには海軍の記憶が横たわっているが、「れんが調」のまちづくりが市議会で「海軍の町としてのモチーフ」として評価され多数の政党から支持されている。
    • 呉の公共工事の実績からみても、それに関する評価からみても、海事博物館の外装への利用は、それまでの流れに沿ったものであり、まったく違和感のないものであった。「海軍のまち」にふさわしい外装は、展示内容を承認する者にも批判する者にも、当たり前のように受け入れられていった
    • 新たな整備があまりにもきわめて自然に受け入れられている「れんが」は、呉のなかで歴史化されていない現在進行形の素材であり、「まちの記憶」を象徴するモニュメントとしては十分に機能していない

平和産業港湾都市の博物館

  • 連続性を保持するロジックとしての平和産業港湾都市
    • 海事博物館の展示について、戦艦や戦闘機の展示が「平和」につながることを訴えていくことが不可欠だった。そのつながりを支えたのは軍転法に掲げられその後の呉市の都市像になった平和産業港湾都市
    • 海事博物館の構想は近代造船技術が核であり、それは戦後の日本を造船王国にした背景に海軍の艦船やそれを生み出した海軍工廠の技術・生産力があることを捉える視点であった。
    • 海に関連し、呉の産業の中心となっている造船業・鉄鋼業は、その工場立地にしても、そこでの技術・生産システムにしても、いずれも戦前の海軍工廠に起源をもつものであり、そのような連続性をいうことなく、呉独自の海事博物館を構想するのは不可能であった。

  • 軍転法が作られた目的そのものにみられる連続性を保持するロジック
    • 旧海軍・海軍工廠に蓄積された技術・生産システム、そして施設を活用して産業を活性化させること、すなわち同一の産業形態ながら軍需ではないことを訴えるための核となったのが、平和産業港湾都市という都市像
    • 平和産業港湾都市とは、悪いのは軍であり、技術に罪はないという発想にもとづいた都市像
    • 海事博物館の構想にあった技術の連続性という考えもまた、同じ発想のもとにあったことは明らか

「平和」の二面性

  • 技術と歴史の連続/断絶を正当化する為の「平和」
    • 呉の「平和」は①「戦前から連続する技術の「平和」利用という言説」と、②「戦時中の諸様相と戦後のそれとを比較し戦前・戦後の断絶性を捉える「平和の尊さ」の言説」の二つが絡み合ったものとなっている
      • ①技術の「平和」利用は、軍事利用目的の断絶を訴えるためのものだが、産業ないし技術の連続性を保証するための言説であり、この場合の「平和」は突き詰めていけばいくほど断絶を主張することは難しくなる。
      • ②歴史の「平和」タイプの言説は、戦前の異常さを際立たせれば際立たせるほど、主張は強固になり、その意味で積極的に断絶性を見出していく

平和産業港湾都市の強調

  • 海事博物館における二つの平和の矛盾
    • 海事博物館構想は、完全に一致することは無い、技術の連続と歴史の断絶という二つの「平和」をたくみに使い分けながら進められていった
      • 平和利用されている技術の前史をさかのぼれば断絶しているはずの海軍に行き着いてしまい、その展示は(断絶して得られたはずの)平和を脅かす存在と映る
      • 戦後に訪れた「平和の尊さ」をふまえながら、戦前に培われた技術が戦後に発展して現在の科学技術にいたるところを見るとき、その「平和の尊さ」に危うさを読み取ることになる。
    • 呉らしい博物館を目指した海事博物館にとって、戦前との断絶面だけを叫ぶことも、また連続性だけを強調することも、どちらもできないという呉の地域的特異性をいかに表現するかがポイントだった

  • 平和産業港湾都市が「平和」の連続性と断絶性の矛盾を克服する
    • 連続性と断絶性をうまく解消させていく一つの手段が平和産業港湾都市という都市像。平和産業港湾都市という言葉は、その成立から見れば、軍・軍需との断絶性を主張しながら、技術の継承的利用の道を獲得するための言葉として「平和」が選択されていた。呉市にとって平和産業港湾都市とは戦前との連続性・断絶性どちらを主張するときにも使うことができる「便利」な単語だった。

3 おわりに-「平和」都市の異同

  • 空襲により都市中心部が壊滅的打撃を受けた呉市の選択
    • 新たな都市を作り出す際、「平和産業港湾都市」を選んだ。これは戦前からの連続性を意識した産業構造に基づいて作られる都市であり、新たな創出というよりも、既存のものを「転換」して活用するという方針に支えられた都市だった軍転法に基づく戦後復興は、まさに連続と断絶といの両面を見据えた歩みだった
    • 「平和産業港湾都市」に「転換」しようとしてきた呉は、海軍・海軍工廠で培われた技術・産業に依存した都市復興・都市計画にかけたのであり、空襲による都市の壊滅という点はありながらも、都市再建の初期条件としては戦前・戦後の連続性があった。