【レジュメ】戦間期における軍港都市「呉」への帝国民の来訪 (参考文献:『呉市史』第5巻pp.1049-1074)

  • 概要
    • 軍港都市は、鎮守府・工廠の設置により形成された帝国日本の人工的な都市である。それ故、経済活動を海軍に依存しており軍縮時には深刻な影響を受けた。それ故、戦間期には海軍依存の転換が目指され、その一つとして博覧会の開催が構想された。しかし時局の変化により軍事普及が要請され、軍事施設見学と結びついた博覧会・観光事業が展開されることとなった。呉市の観光事業は海軍・軍港見学と密接な関係があったため、戦局の激化により見学が困難になると終焉を迎えることとなった。

【項目】

1.国防と産業大博覧会

  • 博覧会開催の背景はもともとは軍縮だった
    • ワシントン軍縮(1922)・ロンドン軍縮(1930)→職工整理と商況沈淪→スローガン「消費都市より産業都市へ」→その方途の一つとして博覧会開催を構想する。
  • 開催までの経緯
    • 1930年7月、呉市、「三呉鉄道完成後の呉市発展策の一つとして記念博覧会を催す」との結論に達する
    • 1933年9月6日、呉市、勧業常設委員会を設置。9月26日、渡辺伍市長、38名に三呉線開通記念博覧会開催準備調査委員を委嘱。12月22日、第2回調査において博覧会の名称を「国防と産業大博覧会」とし、会期を1935年3月1日から4月20日までの50日間とすること、会場を二河公園(第一会場)と川原石海軍埋立地(第二会場)とすることなどを決定。
  • 博覧会の性格の変更
    • 他都市と競合しながら博覧会を実施する意義ないし目的として国防が前面に押し出された。博覧会の開催が、海軍に依存しなくとも自立しうる呉市を建設することであったことを考えると性格が転換した。
  • 開催時期の変更
    • 呉線の開通は早くとも1935年5月と鉄道省から見解が示され、市民は1年延長を求めるも、呉市は海軍の意向に沿い、会期を3月27日(国際連盟脱退についての詔書発布の日)より45日間と決定。
      • 海軍の意向→「真の非常時は1935年の春より秋へ向つて深まり行き、最も日本海軍が劣勢となり、最も危機に瀕するのは同年秋季であり国防の重大と非常時の認識を強く国民に呼びかけんとするには必ずそれ以前、即ち昭和10年春季たらむべきことを最も賢明とする」(『呉市主催国防と産業大博覧会誌』1936年、31頁)
  • 勧誘・宣伝事業
    • 1934年11月20日、二河公園で地鎮祭挙行。1935年3圧上旬、工事ほぼ完了。この間に出品の勧誘、文書・ポスター・ラジオなどあらゆる手段を駆使しての宣伝に、後援や協賛を依頼する海軍省・呉鎮守府陸軍省・商工省・本派本願寺への協力の要請へと精力的な活動が展開された。
  • 第一会場(二河公園・3万坪)
    • 産業本館・郷土産業館・軍需工業館・軍需工業館・本願寺宝物館・観光館・教育館・体育館・農林水産館・拓殖館・満洲館・朝鮮館・演芸館・商工相談所・子供の国・三呉線開通記念館・リンゲス大演技場などが林立。
    • 特筆すべき施設
      • 産業本館…第一会場中最大規模を誇る。3府25県12市の外、北海道、樺太、南洋等々全日本お国自慢の特産品を網羅。
      • 軍需工業館…全国主要海軍指定工場300余りより精巧無比、列強工業界と機械文明の精華を競う我国の驚異的軍需工業製品を出品。
      • 本願寺宝物館…呉市真宗王国。国防並びに産業の充実は一に内面的精神の充実に俟つという考えにたって「心の国防、心の産業」を提唱すること目的とした。
      • リンゲス大演技場…約30メートルの高塔から直径約3.6メートル、深さ約1.8メートルの小型タンクへ金髪の女性がハイ・ダイビングする冒険曲技がアトラクションの中でももっとも人気を博す
  • 第二会場(川原石海軍用地・2万坪)
    • 水族館、日本製鉄館を除く主要部分が海軍館・陸軍館・航空館などにあてられ軍事色を色濃く漂わせる。
    • 特筆すべき施設
      • 海軍館…長さ約10メートルの軍艦大型模型や45センチメートルの切断魚雷などの兵器や海兵団生活10場面・国防の要訣などの展示物がかざられており圧巻。
      • 軍事作業実演場…魚雷発射や水中爆発など軍事作業実演場が設置
      • 艦艇拝観…会場の対岸に軍艦"矢矧"と潜水艦を繋留。
  • 博覧会の結果と経済的波及効果
    • 博覧会
      • 観覧者70万9588名(うち有料入場者65万4269名)、利益10万1134円
    • 経済効果(1935年3月~5月)
      • 呉駅利用客:前年同月に比較し36万7103名増加。
      • 宿泊人員:前年同期より1万7149名増加。
  • 成功の要因
    • 国防と産業という本来は統一できないテーマをかかげ微妙なバランスをとったところにこそ成功の秘訣。この時期はそうしたあいまいさが浮き彫りにされた時期であった。

2.「支那事変大博覧会」

  • 日中戦争勃発と銃後支援体制
    • 1937年、7月15日:「北支事変」呉市民大会開催、7月~9月:軍人援護組織の呉市国防協会の改組・拡充、8月8日:国威宣揚戦勝祈願祭
  • 博覧会のアウトライン
    • 構想:支那事変の報国事業の一環として、呉市民及び全国民に覚醒を促すもっとも有効な手段として1937年8月に博覧会開催が考えられるにいたる。
    • 目的:国民精神総動員、軍事思想の普及、軍需工業の振興
    • 後援:海軍省陸軍省・商工省・文部省・呉鎮守府・第五師団
    • 場所・期間:二河公園、1938年3月25日から30日間
  • 展示物の特徴
    • 余興場は片隅におかれ、産業に関するものも郷土対支貿易館に限定
    • 大部分は軍事関係展示館→戦利品館、航空館、軍事記念館、実戦パノラマ館、国産軍需工業館など
    • 屋外展示→二河公園の自然を生かした模擬戦場、「等身大の人形、衣装其他も皆実物、然も動力により夫々人馬は動く、その上銃砲声の擬音は絶へず戦線場に漲つて来観者の実感に訴へ」(「呉の支那事変大博覧会」、1938年)た。
  • タイアップ行事
    • 呉鎮管下兵事会議など種々の会議・大会などが実施される。
    • 1938年4月5日、本派本願寺法主大谷光照をむかえて執行された「支那事変戦没将士追弔大法会」は最大の行事となる→二河公園内の忠魂碑前の会場には、来賓および遺家族3000余名に加えて、数万にのぼる市民が参列。戦死者の冥福を祈る。
  • 博覧会の結果と経済効果
    • 昭和13年4月30日、当初の予定を1週間延期して幕を閉じる。
    • 入場者数は67万3618名(うち有料入場者61万197名)
    • 剰余金2万円
  • 支那事変大博覧会が成功した背景
    • 陸海軍の全面的な協力もあって臨場感あふれる戦場が手近に再現できた
    • 観覧者がまだ勝ち戦として認識しうる時期であった
    • 料金が安かった(当日券大人25銭/国防博は40銭)

3.観光事業

  • 呉市観光協会の創設(1932年10月15日)
    • 背景:国立公園指定の影響により全国につぎつぎと観光協会が設立されていた状況に沿い、呉市呉商工会議所が中心となり誕生。
    • 目的:「呉市観光協会会則・第2条」→「本会は呉市および附近における海軍諸施設ならびに軍艦、地理、交通、物産、景勝その他の状況を紹介宣伝しかつ旅行、巡遊に関する施設の保護改善を勧奨し観光者の便益を図るをもつて目的とす」(『呉新聞』1932年8月2日)
    • 事業
      • 一、呉並広海軍諸施設見学並拝観斡旋
      • 二、名所旧蹟景勝地ノ紹介
      • 三、呉市生産品ノ販路開拓並宣伝斡旋
      • 四、土産品ノ改善紹介
      • 五、交通、旅館、休憩所其他接客施設ノ改善及紹介
      • 六、其他本会ノ目的達成上必要ト認ムル事項
    • 効果
      • 呉市観光協会の努力→「ポスター、鳥瞰図、軍港案内等の宣伝物を作製して全国要路に配布し又は軍港見学者に贈呈して観光客の誘致宣伝に努力」した。
  • 海軍の働きかけと帝国民の軍港への来訪
    • 「1935、36年の国際的難関をひかへ澎湃として全国内にみなぎりあふれた国防熱の隆盛は海軍当局の一段と拍車を加へた軍事普及法と相まつて逐日国民の国防観念徹底となつて」(『呉新聞』昭和8年12月16日)、1月より12月半ばまでに軍港を来訪し、軍艦・呉海軍工廠・呉海兵団を見学した人数は、前年度より8万4553名多い24万7327名(男性16万2368名・女性8万4959名)を数えるにいたった。
  • 戦前期呉市観光事業の終焉
    • 呉軍港観覧の制限
      • 呉市の観光は軍事施設の見学をつうじて発展してきたため、時世により中止
        • 1942年6月15日、「当分の間特に必要と認むる者のほか呉軍港観覧(参観、視察、見学)を許可せず」(『呉新聞』1942年6月18日)との告示(呉鎮守府告示第16号)
        • 海軍としては「海軍軍事思想の啓発指導……がためには国民諸君にどしどし軍港などを見学させてあげたいのである」が、「大東亜戦争勃発以来すでに半年を経、……今後さらに雄大なる各種の作戦が遂行せられることは想像せられるのであ」り、「かくの如き絶対機密保持の見地から今回軍港の観覧」の制限へとふみきった(『呉新聞』1942年6月18日)
    • 海光館の閉鎖
      • 海光館とは!?
        • 1922年4月1日から5月15日にかけて開催された中国四国生産品共進会第二会場(川原石)海軍参考館が、共進会終了後、海光館と名称をかえ、水族館などを敷設し市民の観覧に供せられていたものが、1930年に二河公園に移転し、海軍兵器を展示しつづけてきた。
        • 海光館には"摂津"に装備されていた12インチ主砲をはじめ、水上飛行機・ディーゼルエンジン・魚雷などが展示されていた。
      • 閉鎖→1940年には「戦時下における物資愛護精神に則つて」(『呉新聞』1940年7月5日)閉鎖となり、展示品は海軍に献納された。