雑録

加藤政洋「軍港都市の遊興空間」(上杉和央編『軍港都市研究Ⅱ』、清文堂、2012年、281-320頁)

軍港都市には遊興空間が存在し、そこは消費の局面では空間的に分化しており、海軍の社会性が刻み込まれていた。

はじめに

  • 消費都市としての軍港都市の特異性
    • 軍港都市の消費の在り方の特異性として、「セクシュアルな領域と密接に関わる」ことと「その領域で独自の慣習や様式をも生み出していた」ことが挙げられる。
    • 海軍の軍人が陸にあがることは女性との接触をともなう慰安を意味していた。買春を正当化し自明視することは逆に言えば買春を可能とする環境が十全に整っていたことを示す。
    • 心寂しい寒村を下地にして編成される軍港都市は、その日常を軍事的な規律・訓練によって生きる男性たちの特異かつ種別的な需要(欲望)にもとづく空間形成の過程ないしその帰結としても捉え返される。
  • 本論の趣旨
    • 軍港都市の「消費の景観」について、主として遊興にまつわる空間に焦点を合わせて考察する
    • ②遊興空間を軍港都市に固有の空間編成の一面として捉え、「消費の空間的分化」という観点から検討する
    • ③主として『海軍おもしろ辞典』や関連する書物の収録された海軍用語を参照しつつ、都市景観を構成する諸空間-具体的には、遊郭、料亭、花街、繁華街-に軍港都市固有の消費の諸相を読み込む

第1節 軍港都市遊郭

  • 帝国主義の装置
    • 欧米の「先進国」から「帝国主義の装置」として、「徴兵制」と並んで輸入されたのが「公娼制」である。公娼制度が、「江戸時代以来の遊郭のしくみ」、すなわち「集娼方式」に「接ぎ木」されることで、「売春営業の構造が固定化され」、明治前期から昭和初年にいたるまで、都市部を中心に全国の各地で遊郭が建設された。
  • 公娼制
    • 【前提】1900年「娼妓取締規則」(内務省令第44号)
      • 「売春営業」が制度化され、貸座敷の営業許可地(=遊郭)として空間的に固定化された
    • 【特殊】1900年4月26日「秘甲第123号」「(別紙)貸座敷免許地標準内規」
      • 「其ノ土地市街ヲ形成シ戸数二千以上人口一万以上ヲ有スル事」を設置の条件としつつ「但 兵営所在地舩付場其ノ他特別ノ事情アルモノハ此ノ限二在ラス」という付帯条項も明記される→「兵営所在地」が例外とされること自体、徴兵制が公娼制を随伴する仕組みであった
  • 鎮守府における遊郭の誕生~事例:呉の朝日遊郭の形成~
    • 「朝日遊郭は、軍港地としての特殊事情から栄えたものであるが、その生まれ出づるにあつても海軍とは密接なる関係を持つてゐた」
    • 明治27、8年の日清戦争に出征した海軍軍人には花柳病が□常に多かつたの□、時の貴族院議員澤原為綱翁に対し海軍省から内相談あり、翁は当時土木請負業者の大立物たりし桐山可造氏、県会議員宮原幸三郎氏らと協議し大急ぎでデツチあげて貸座敷の認可を受けた」(弘中柳三『呉花街案内』中国日報社、1935年、69頁)

(1)『全国遊郭案内』における軍港都市

  • 呉市吉浦の成立 明治20年説・明治27年
    • 明治20年説 日本遊覧社編『全国遊郭案内』(日本遊覧社、1930年)
      • 「[呉市吉浦遊郭]……呉市は軍港で鎮守府を置かれる迄は眇たる一小村であつたが、今では隆々として発展し、人口は正に20万に近着いて岡山市を越え、近い将来には広島をも凌駕せんとする程の勢である。……此の遊郭が許可地に成つたのは明治20年10月8日で、現在貸座敷が13軒あつて娼妓は百十人居る。」
    • 明治27年説 弘中柳三『呉花街案内』(中国日報社、1935年)
      • 「[吉浦の花街] 呉市とあまりに隣接してゐるため吉浦町の花街は左程華やかなものはないが、それでも阿賀築港成るまで、いな阿賀との電車その他の聯絡が出来るまでは川原石港が軍港内の制限をうけてゐる関係上、大呉市唯一の海の玄関であったほどに、船つき場の街として独特の花街の発展をみたものであり、人口に相応しからぬ遊郭をもつてゐるのである…[中略]…遊郭明治27年日清戦争時代に創まつたもの、当時8軒だつたものが現在……12軒になつてをる」
  • 呉市朝日遊郭の成立
    • 日本遊覧社編『全国遊郭案内』(日本遊覧社、1930年)
      • 「[呉市朝日町遊郭]……此処の遊郭は吉浦より遅るゝ事八年の明治廿八年に設立されたものであるが、地の利を得て居る事と、又一つには営業方針の時期に投じて居た為めに、めきめきと発展し、今では本家の吉浦を三倍して、貸座敷は45軒、娼妓は500人の多数を置く様に成つた。市の発展振りも又推して知るべしである」
  • 吉浦は地域における港湾機能、朝日町は軍港都市
    • 吉浦は地域における港湾機能との結びつきが形成の動員。吉浦遊郭の発展した背景には、1910年(明治43)、呉の川原石の港が海軍に接収されたことにより、吉浦が「呉市の外港として県下有数の商港」となったことがある。
    • 事実上、軍港都市としての呉の遊郭は、朝日遊郭ひとつと見るのが妥当

(2)遊郭の立地と景観

  • 近代都市の遊郭
    • 明治期後期以降の遊郭は「近からず遠からず」を原則に、市街地化の最前線の一歩先、いずれは市街地化の波にのまれるであろう近郊に開発されるのがつねであった。
  • 呉市朝日町の立地
    • 谷に沿って山側に貫入するように形成された市街地の突端、そこが朝日遊郭の所在地(設置当時は荘山田村)。
    • 当初は近郊に位置した遊郭も市街地の延伸にともない都市空間に取り込まれるが、これを決定づけたのが市内電車の敷設。
    • 市電の開通によって都心部との近接性が増大した朝日遊郭は市電に乗ると市街地北端の本通13丁目の停留場で下車することから「13丁目」、「13天国」、あるいは「ノースエンド」や「北極」などと呼ばれていた。
  • 朝日遊郭の隆盛
    • ダンスホール
      • 「朝日遊郭で特筆すべきは、その近代化であり、ここ数年から相次いで改築される豪華な洋館高層建築の中にはジヤズのメロデー漂ふダンスホールが多数にある、これは、私娼に代って郭を脅威し来つたカフェーの進出に対抗するべく先進都市に倣つたもので、ダンス・ホールとしては許されず、娼妓の溜まり場、娼妓の運動場として、登楼客にのみ許されてをるものである」(『呉花街案内』71頁)
      • 「芸妓、料亭のお株を奪ひてこれを簡易化せるサービスガールと大広間や客間、カフェーを妬かせるダンス・ホール、更には舞踏その他諸演芸への躍進的新天地開拓と、まさに歓楽街の全機能を一堂にエキスしてゐる」貸座敷も存在
    • ②異国情緒
      • 「伝統今や影薄く、昔ながらの郭情緒では近代人の要求に応ぜられなくなつた朝日楽園では、或は高層建築に、或は特殊の様風に外観を改めると共に、内部にも寝室の和洋お好み次第、ここちよきダブルベッドは勿論、或はダンスホール、或は鏡の間、更には香水風呂、家族風呂と種々なる新趣向が絶えず試みられてゐるが、外観の内容とも異国情緒を漂はし、居ながらにして異国へ旅した旅愁を味はしめるものに朝日楼本店があり、洋館に洋風にと急ぐなかに東洋独特の支那様式をとりいれてをり、郭内に一きわ目立つ存在をなしてゐる……その内部は支那趣味を満喫せしめるとともに軒並みの一つ一つの家を思はしめて、屋根、玄関、引き戸と恰もこぢんまりとした一軒の家にささやかに恋を語るかの如き気持を抱かしめる……、支那様式とはいへ近代の流れはダンス・ホールもあり、ここに躍れば上海あたりへでも行つて躍つてをるようなきがするだらう」(『呉花街案内』裏表紙広告)

(3)私娼街の問題

  • 遊郭へのアプローチに曖昧屋や銘酒屋が並んで私娼街が形成されるケースは近代期の都市に広く見られる現象
    • 朝日遊郭の創立来40年の歴史はここ数年前まで、軍港地に特異なる市中の淫売窟に相当悩まされてきた。「松本町、堺川、泉場町の私娼街」が名指しされており、そこは繁華街である中通の突き当りでちょうど朝日遊郭へは帳となる街々。
    • 松本町はある程度まで名を知られた存在。
      • 「附近一帯は衆楽園市場で昼夜となく賑ふ、映画館などもあつて、中通八丁目からすぐ左へそれて堺川上流の三角地帯を占めた盛り場である。この堺川附近松本界隈はもと、有名な私娼街で、薄暗い軒にただずんで白粉の女が客のたもとを引いてゐた、堺川がドブ川なので「堺川畔に悪の華」だなどと新聞などに書き立てられて、すつかり軍港名物になつてゐたが、近年警察のエロ弾圧を喰つて姿をひそめてゐるが、またチラリ、ホラリと潜行してゐる。この堺川にそふて松本町をのぼれば朝日遊郭へ出る」(中邨末吉『呉軍港案内』呉郷土史研究会、1934年、76頁)

第2節 軍港都市の花街

(1)遊郭との比較から

  • 軍港には遊郭とは別に芸妓の活躍する花街が形成されていた
    • 「呉の花柳界には振興気分があふれている。軍港設置から始まり、戦争の度毎に繁盛して来ただけあつて、京都のお城式と違ひ、神戸のマドロス型とも違ふ、呉は海軍とうてばひびくといふ特殊な情緒がある、何となくモダン味がある、そのモダン味は海軍からの影響が多い、この頃ではお座敷ダンスが盛んである、海軍の宴席によく侍るから仲々物識りや非常時型の芸妓が多い」(『呉花街案内』13頁)
  • 遊郭と花街の規模の違い
    • 「呉もまた、朝日遊郭を有していることから、1912年(明治45)では貸座敷58軒に娼妓560名が在籍し、町検番の芸妓(百数十名)を数の上で圧倒していた(吉武枯柳『呉市繁盛記』友田誠真堂、1912年、69頁)。
    • 「やや時代が下がって1935年(昭和10)には、芸妓約270人、置屋40軒、料理屋90軒に対し、朝日遊郭は貸座敷46軒、娼妓約650名であった」(出典明記されず)
  • 士官とそれ以外との住み分け
    • 「兵員の行くところに士官が行くと、兵員が窮屈な思いをしてくつろぐことができないし、統率上も好ましいことではないので、士官は女郎屋に行くなとしつけられていた」(『海軍用語おもしろ辞典』57頁)
    • 軍港都市の妓楼は「海軍女郎屋」だが、遊郭を利用するのは士官よりも下のクラス、あるいは工廠の職工たちが中心。軍港都市をひとつの消費空間としてみた場合、階級や階層に応じて住み分けがなされていた。

(2)海軍士官の不文律

  • 海軍士官の遊興場所は料亭
    • 素人(一般)の女性を相手にしないことが不文律となり、鉄則とされていた背景には、士官がブラック(玄人、商売女)と遊ぶことに関して海軍当局はまったく口を出さない。海軍はブラック、とくにエス・プレイ(芸者遊び)をすることは、奨励とまではいえないにしても、それに近い態度をとっていた。
    • 士官の本流はあくまでS(芸者)でS以外に手を出す人はきわめて少なかったし、あまりよくいわれれなかった。士官の遊興はSプレイ-すなわち「芸者あそび」-に特化していた。
    • 芸者あそびの主たる舞台となったのが、各軍港を代表する料亭

(3)海軍と料亭

  • 呉における料亭
    • 『呉花街案内』では呉には軍港独特の「花柳語」があった。「△グッド 吉川料亭 △ラウンド 徳田料亭(マルイチ) △ロック 岩越料亭 △メープル 紅葉館」と旅館を兼ねた一流料亭が列挙されている。これらのニックネームはいずれも海軍の関係者によって名づけられた。
    • 『海軍用語おもしろ辞典』にも上記料亭はすべて掲載されており、徳田料亭は屋号の「マルイチ」の「マル=丸 round」に、岩越料亭は頭文字の「岩 rock」に、そして紅葉館は「楓 maple」にちなむ。メープルは「回航」(停泊期間中、妻を呼び寄せて一緒に過ごすことを意味する隠語)の旅館として利用されていた。

(4)Sプレイとストップ

  • Sプレイ(芸者あそび)とストップ(芸者と料亭や待合に泊まること)は不可分
    • 当時レスに行くといえばストップが普通であった
    • 当時の十円札を意味する「イノシシ」は、それが1枚あれば佐世保や呉では料亭で酒を飲んで泊まることができた
    • 夜の12時から朝の6時までの料金(=枕金)を意味する「ピロー」などストップは当然視される行為であった
    • 「インチ」(なじみ)は肉体的に懇意になった士官と芸者の関係を指していた
    • 上陸に際してはゴム製品とシー・クリーム(医務室でタダでくれる性病予防用でチューブ入り)を持っているかどうか点検された。

第3節 遊興の空間的分化

地理的には一体性を有する軍港都市呉の遊興空間

  • 呉市の都市形成
    • 呉市では、急峻な山と海に囲まれた地理的条件によって、市街地は高地部へと延びて住宅街が築かれた
    • 中心部には市場、商店街、盛り場、花街が形成されて大いに賑わい、特有の消費空間を現出した
    • いちはやく開通されたメインストリートたる本通と、それと並行して南北方向に形成された中通は市街地きっての中心的な商店街。
    • 本通が銀行などの集積する業務地区であったのに対し、中通は明治末期から昭和初期にかけて盛り場的な性格を色濃くしていく。
  • 中通の特徴
    • 「夜の歓楽境」
      • 「中通は本通と堺川の中間にはさまれてゐる繁華な中心街、最も賑わってゐるのは、六丁目より九丁目まで、七丁目と八丁目は、もと千日前と呼んでゐた盛り場である。中通は呉市を代表した歓楽街と云つた感じだ、カフエー、喫茶店、料亭その他映画館。劇場などはみな中通または中通を中心としてその附近にある。代表的な建物としては日の丸百貨店(四階)カフエーブラジル(三階)その他。道路舗装も感じがよい、中通の鈴蘭燈は、市内ではトップを切ったもの、一番金もかけてゐる。夜景は殊に美しい。夜の人出は他の都市では到底見られないほどの素晴らしい盛観だ。夜の歓楽境と云へば先づ中通だ」(『呉軍港案内』75-76頁)
    • 「麗女通」
      • 中通のなかでも6丁目から8丁目にかけての賑わいはひとしお。
      • 大正期から昭和初年にかけて(1920年代)、カフェー、バー、喫茶店が雨後の筍の如く簇生し、なかでも本通6・7丁目から中通6・7丁目に抜ける路地(横丁)には、軒並みにカフエー、バー、喫茶店、料亭などが櫛比して「軍港新風景」をつくりあげる。このカフェー街が軍港内の麗女島にちなんで「麗女通」と名付けられた
  • 遊興空間の地理的な一体性
    • 呉の花街は、一廓を画するというよりも、中通を中心に置屋が立地し、周辺に分布する料亭や旅館を出先とすることで、まさに歓楽街と一体化して発展していた
    • 呉の飲食店の多くは、本通と中通の周辺に集積していた。そこにカフエーや喫茶店などが彩りを添えて「夜の人出は他の都市では到底見られないほどの素晴らしい盛観」となっていた。
    • 集積の規模が他都市に見られないほどの集客を可能にし、「歓楽郷」の賑わいを生み出していた

消費の局面では職種や位階に応じて差異化・分化する軍港都市呉の遊興空間

  • 旅館の等級
    • 呉市の旅館は、一等から三等までの等級に区分され、等級別に統一の料金が定められていた。そして一等旅館はすべからく料亭を兼ねていた。一等旅館は「海軍士官の歓送迎、その他宴会、一流人士の宿泊など」に利用され、二等旅館は観光や商用などの旅行客、そして三等は安宿といった区分がなされていた
  • 飲食店における住み分け
    • 飲食店などはすべて、士官の利用するところと下士官兵の利用するところが分かれており、士官の行くところには下士官兵は行かず、下士官兵の出入りするところには士官は行かなかった。それほどに軍港の都市空間は需要にもとづき差異化され分化していた。

おわりに

  • RQ確認
    • 軍港都市の消費の景観-遊興空間-に焦点を合わせて、空間的な分化という観点から、その特色を明らかにした
  • Answer
    • 軍港都市の景観には、その独特の消費様式を通じて、海軍に固有の社会性がしっかりと刻み込まれていた