中嶋晋平「戦前期の「軍艦便乗」にみる海軍のPR活動と民衆」(『戦前期海軍のPR活動と世論』第9章、思文閣出版、2021年、213-230頁)

  • 本稿の趣旨
    • 【目的】軍艦への便乗を海軍思想・海事思想を広め海軍に対する理解と共感を得るためのPRの場とし、民衆との良好な関係を図った海軍は、そこから何を学びどう実践したのかを考察する。
    • 【結論】海軍思想・海事思想の普及を目的とする際、軍艦便乗は人々に強烈なインパクトを与える絶好の機会となったので、官製・民間の諸団体と密接につながり軍艦便乗を可能な限り積極的に活用しようとした。

【目次】

第1節 「軍艦便乗」というPR活動

  • 海軍の多角的なPR活動
    • 海軍軍事普及委員会の設置が象徴的に示すように、海軍はワシントン会議以降、海軍に関する国民の理解促進のため、多角的なPR活動に力を入れるようになった

  • 軍艦への便乗事例
    • 大連海務協会編『聯合艦隊学生便乗見学記念誌』1925年
      • 1925年4月4日、戦艦陸奥を旗艦とする計60隻を超える聯合艦隊旅順港外に碇泊。満洲日日新聞社と大連海務協会が連盟で主催者となり「海軍思想」「海事思想」の普及、涵養を目的として、中国沿岸の航行を予定していた聯合艦隊の軍艦の便乗、見学の申請を出し、許可された。4月9日、聯合艦隊が大連へ出港するにあたり、5000人を超える学生や一般市民が便乗し、戦技や軍艦内での兵士の生活の様子などを見学した。

  • 軍艦を利用した便乗以外のPR
    • 観艦式の実施
      • 明治末期から大正初期にかけて、日本海軍は世界的な軍艦建造競争の中で、いわゆる八八艦隊と呼ばれる軍備拡充計画実現のために、膨大な額の整備費必要としていた。緊縮財政の中、それら海軍としての要求を実現させるためには、政治家や官僚、実業家らの理解と協力を必要とした。そのための手段として海軍当局は観艦式をPRの場として位置づけ、有力者を招待して支持を取り付けようとした。
    • 観艦式の終焉
      • 1917年度から1920年度において八八艦隊整備のための予算が成立すると恒例化を企図していた観艦式は行われなくなる。恒例観艦式が八八艦隊整備のためのPR活動であるならば、目的が達成された段階でその役目を終えたと考えるのは自然。観艦式のPRの対象が海軍予算に影響を与える議員や官僚らが中心であったことからも推察される。

  • ワシントン会議以後の海軍による国民との良好な関係構築のためのPR
    • 海軍軍事普及委員会の規定に記載されたPR活動のうちの一つとしての軍艦への便乗・見学
      • 第一次世界大戦以前は一部の教育家等に限定されていた軍艦への便乗が、大正末頃には海軍の軍事知識の普及を目的として、広く一般市民にまで解放されるようになった。

第2節 軍艦便乗に関する規定

  • 1919年5月 海軍次官より各鎮守府長官・艦隊長官・要港部司令官に対して出された通達(海軍大臣官房「海軍制度沿革 巻11」1940年、1126-1127頁)
    • 「地方官公吏其の他の者を団(隊)内宿泊又は艦船便乗に関する件」
      • 「近来地方官公吏其の他の者にして海軍部内の見学を希望する者多きを加へ親しく艦、団(隊)内に宿泊し又は艦船に便乗方を願出づる者も有之哉に聞及び候に就ては本務に支障を来たさざる限り便宜を与ふることとし大体左記の方針に依り許可せられ差支えなき御趣意に候條御了知相成度」
        • ただし軍艦への便乗は「其の都度大臣の指令を仰ぐこと」とされていた

  • 1926年11月 上記1919年の規定変更(海軍大臣官房「海軍制度沿革 巻11」1940年、1127頁)
    • 一、便乗又は宿泊は艦隊部隊の本務に支障を来さず且艦船に在りては通常の航泊の場合に限り之を許可するものとす 航空母艦及潜水艦には便乗を許可せざるを例とす
    • 二、便乗又は宿泊を許可すべき範囲左の如し
      • イ、官公吏
      • ロ、学校職員及生徒
      • ハ、在郷軍人団、青年団又は之に準ずべきもの
      • 二、新聞記者
      • 宿泊は已むを得ざる場合の外男子に限る
    • 三、期間一日を越えず且宿泊を要せざる場合の便乗及部隊に於ける通常の宿泊は所属長官に於て適宜之を許可することを得此の場合に於ては事後之を海軍大臣に報告するものとす
    • 四、左の場合には事由を具し予め海軍大臣の認許を受くることを要す
      • イ、便乗一日を越ゆる場合
      • ロ、特別の自由に依り航空母艦潜水艦に便乗を許可する場合
      • ハ、戦技演習(大小基本演習及之に準ずべきものを含む)等通常航泊に非ざる場合の便乗
      • 二、前記の外特別の事由に依り便乗又は宿泊を許可する場合

第3節 PR活動としての軍艦便乗の始まり

  • 一般人の軍艦便乗許可の始まり
    • 上記「地方官公吏其の他の者を団(隊)内宿泊又は艦船便乗に関する件」が出された1919年5月から始まる
      • 本書では舞鶴鎮守府における「香取」への便乗の事例が取り上げられている

  • 軍艦便乗の対象と目的
    • 軍艦便乗の対象として想定されているのは主に「地方官公吏」や「青年団幹部」「学校教職員」。目的は海軍生徒(海軍兵学校入学希望者および志願兵)の増加。
    • 青年団は義務教育修了もしくは同年齢以上から20歳以下の男子によって構成される国民動員のための組織。海軍にとって海軍思想普及を目的とする軍艦便乗の最も好都合な団体。
    • PRとしての軍艦便乗は、第一次世界大戦によって顕著に表れてきた志願者数の減少に歯止めをかけるための対応策。PRとしての観艦式が海軍予算獲得のために行われていたのとは目的が異なる。

  • 地域社会における海軍志願者への影響
    • 地域社会における海軍志願者の多寡が、各地域社会における担当者の認識やモチベーションに大きく左右されている状況を海軍は認識していた。
    • 海軍志願者の奨励を担う官吏を軍艦に乗せることで、現場で直接民衆と関わり、海軍志願者の奨励に当る人々の海軍に対する理解を深め、モチベーションを向上させることを企図した。
    • 教育関係者についても戦後の回顧録によれば海軍志願者の中には教員からの勧めが動機となった者もいて、学生が海軍を進路先として選択する上で、教育関係者の影響は大きかった。

第4節 軍艦便乗の拡大-民間団体との協働-

  • 1920年における海国少年社の軍艦便乗
    • 1920年に行われた軍艦便乗17件のうち6件が海国少年社からの依頼
    • 海国少年社の軍艦便乗に関する情報が新聞あるいは小学校など全国の教育機関を通じて広まり、結果として便乗希望者からの応募が殺到するなど大きな影響を呼ぶ
    • 1920年1月海国少年社社主河合秋平より海軍省に軍艦便乗願が出される。海軍当局、4月2日から4日にかけて横須賀-鳥羽間の航行を予定していた軍艦津軽への便乗を許可し、3月2日に正式に海国少年社へ伝える。海国少年社、『海国少年』誌上だけでなく3月7日付で全国各小学校宛落ちなく郵送、宣伝に努める。人員50名のところ2243名の応募があり、大きな反響を呼ぶ。

  • 海国少年社と『海国少年』
    • 海国少年社は1917年から『海国少年』という雑誌を出版している(創刊号は確認されていない)
    • 『海国少年』出版の目的(第4巻第8号、1920年より)
      • 「海国社は海事思想の普及を目的として生まれたるものにして皇国古来の忠君愛国祖先崇拝の観念を根本義とし将来の国家に立ちて活躍すべき少年の脳裡に健全なる海事思想を注入すると共に剛健なる気風と円満なる趣味とを涵養するを以て主義とす」
    • 『海国少年』の内容
      • 漫画や小説などの読み物が大半を占め、そのほとんどが海に関わる事柄をテーマとしており、海にまつわる実話の執筆者には海軍将校の名前も見える。

  • 海国少年社による軍艦便乗の歴的意義
    • 海軍思想あるいは海事思想の普及を目的とした軍艦便乗の中には、海軍と民衆、両者からの働きかけの結果と行われていたものが存在するということ。
    • 民衆側からの主体的な海軍思想あるいは海事思想の普及に対して、海軍側も大きな期待を寄せていたことが分かる。

第5節 軍艦便乗にみる海軍と民衆

  • 軍艦を活用したPR活動の拡大の事例
    • 1925年6月25日から7月29日までの約1カ月間、横須賀鎮守府所属の軍艦日進が三陸および北海道沿岸を巡航、複数回の軍艦便乗と見学を組み合わせて実施
    • 軍艦日進が横須賀から舘山、女川、大船渡、釜石、宮古、大湊、青森、函館、小樽、室蘭など14か所に停泊した後、横須賀に戻るというコース。地域間の移動に際して、計12回の軍艦便乗を実施、のべ4500人ほどが便乗を許可される。10の地域では軍艦見学イベントが行われ、計6万を超える人々が日進を見るために集まった。

  • 軍艦便乗の意義
    • 海軍志願者の減少への対策として始められた軍艦便乗というPRは海軍軍縮条約の成立を経て、さらに規模を拡大。海軍に対する理解と共感を得るため、可能な限り積極的に活用するようになった。官製団体、民間団体を含め、海軍思想・海事思想の普及を目的とする諸団体にとって、軍艦便乗は人々に強烈なインパクトを与える絶好の機会であった。
    • 戦前期における軍艦便乗は、海軍当局と民間団体をはじめとする様々な団体とが密接につながることによって、海軍思想の普及や海事思想の涵養を目的とするPRの場として機能していた。