雑録

章霖「大正期における海軍の艦隊行動と地域社会」(『史学雑誌』第129編第9号、39-64頁)

  • 本稿の趣旨
    • 関東州巡航は、平時訓練や演習を意図して実施された。平時任務以外にも、広報、外交、乗組員の精神教育や休養といった様々な目的があった。艦隊行動は日本人居留民と現地民に異なる効果をもたらした。日本人居留民は自らの生活の後ろ盾としての海軍という事実を自覚したが、中国人は自国の現状を顧みて苦悩し将来の国力増強を願った。同じ艦隊を見ていても関東州の中国人と日本人では艦隊に対するイメージが大きく異なっていた。

はじめに

  • 本稿の意義
    • 関東州
      • 数多くの日本人と中国人が雑居する関東州は、植民地と外国の中間的な位置を占め、旅順港と周辺海域は日露戦争における海軍の激戦地であったので、海軍にとって物資の補給のみならず乗組員の休養や精神教育の面でも大きな価値があった。
      • 関東州に関わる艦隊行動の実態を分析することで、安全保障や国際関係という点で問題を抱える地域を含め、海軍側の艦隊行動の狙いや、租借地の日中両国住民が海軍にいかなるイメージを持ったのかを明らかにできる。
    • 艦隊行動
      • 平時における海軍の主要な活動は、海上での訓練と演習であり、この一連の艦隊行動については実証的な分析がなされていない。艦隊行動という、海軍の主要な活動の実態を把握することで、戦間期の海軍が艦隊という他に類を見ない資源を、いかにして広報などの活動に活用していたのかを明らかにする。
  • 本稿の目的
    • 第一次大戦後の大正期を中心に、海軍主要艦隊の平時の行動海域に着目し、特に関東州巡航を取り上げ、海軍艦隊の平時訓練海域、出航中の帰港状況及び関東州巡航の意義について分析する

第一章 関東州への巡航

第一節 艦隊の平時任務と巡航

  • 艦隊の平時任務
    • 戦間期に数回の改定がなされたが、1919年段階では「第一、第二、第三艦隊ハ専ラ教育訓練ニ従事シテ兼テ行動区域内沿海及流域ノ警備ニ任ス」と規定されていた。艦隊は、平時においては教育・訓練を行いつつ、行動区域内の警備に従事することが求められ、その他、演習と検閲が定期的になされることとなった。
  • 海軍の巡航
    • 明確な定義は存在しない。実際の巡航例は「日本海方面巡航」、「関東州山東方面省方面巡航」など。日本の国内海域と国外海域を区別せず、軍艦が長距離の航行をなす行動を巡航と呼んでいた。
  • 平時海軍における巡航の位置づけ
    • 平時任務における教育と訓練は各々が独立している任務ではなく、密接不可分の任務として遂行されていた。こうした任務を遂行するための手段として巡航は平時海軍の活動において重要な位置を占めていた。

第二節 巡航区域の決定と外国巡航

  • 連合艦隊の行動計画は如何なるプロセスで決定されたか
    • 艦隊の具体的な行動計画の立案者は軍務局であるが、司令長官が計画の決定権を持っていた。艦隊の司令長官は自身の意思で艦隊の訓練海域を決められるが、任意で軍艦を遠方海域に派遣することはできない。艦船派遣時には海軍大臣へ派遣先を報告する必要があった。
  • 第一次世界大戦以降の海軍主力艦隊の外国巡航行動の特徴
    • 黄海並びに渤海湾方面の巡航が多く、この方面への巡航の寄港地は関東州の場合が多い。1923年に巡航した裏長山列島は、日露戦争で海軍の根拠地として利用された地であり、昭和期においても「例の日露戦争で名高い州内の裏長山列島まで第一第二艦隊対抗演習」が行われていた。日露戦争の経験と記憶を喚起させるという意味では、旅順帰港時に必ず日露戦争の戦跡と白玉山の表忠塔を乗組員に見学させていた。関東州巡航は戦跡見学など艦隊の乗組員に対する精神教育も含意したものであった。

第三節 関東州巡航のはじまりと巡航中の帰港地

  • 関東州巡航の実施年代
    • 初の派遣…日本が関東州租借地を獲得した直後から開始された。1905年9月のポーツマス条約調印後の翌年7月、海軍は第二艦隊を大連へ初めて派遣した。
    • 2度目の派遣…1910年4月、定期演習を巡航目的とした第二艦隊が大連と旅順に帰港。
    • 初めて軍艦を大連市民に公開…1912年1月に第二艦隊を関東州へ派遣。同艦隊が中国の華南へ出航した後、第一艦隊が関東州へ派遣され、この時初めて軍艦を大連市民に公開。
    • その後の派遣…1913年4月第一艦隊、1916年3月第三艦隊の一部、1917年4月第二艦隊、1919年第二艦隊
    • 第一次世界大戦後の派遣…1920年、23年を除き32年に至るまで毎年艦隊を派遣し、関東州巡航がほぼ定例化していた。
    • 関東州巡航の終わり…1933年に連合艦隊の行動予定が変更されたことによって、春季においては関東州に代わり、南西諸島方面へと巡航先が変更された。34年9月には再び関東州への巡航が復活したが、これ以降、日中戦争勃発まで再度巡航が行われることはばかった。
  • 帰港状況
    • 戦間期の海軍の関東州巡航は基本的に訓練の一環という位置づけであり、大連や旅順に帰港した第一の目的は兵員の急用と物資の補充。内地での帰港と同様に、関東州へ巡航した艦隊の乗組員らも上陸の機会を利用し、大連の市街で休養した。
    • 当時の大連は満洲で随一の大都市であり、商業面も娯楽面も繁栄していた。消費都市の一面も有する大連ではモダンなカフェ、電気遊園地、映画館などの施設も完備していた。
    • 艦隊の帰港による将兵の上陸という商機は大連市民にとって好機だった。大連市民は帰港した海軍に好意的なイメージを持っていたことがうかがえる。
    • 日本人居留民だけでなく現地の中国人も同様であり、艦隊の来航に喜ぶ中国人商人が多かった一方で、「旅大回収」運動を呼びかけた中国人も多く、関東州が中国大陸における租借地という特殊な地域であることに変わりなかった。

第二章 関東州巡航の特徴

第一節 関東州の状況について

  • 関東州に対する海軍の認識
    • 海軍は関東州を外国と同等には見なさず同じ巡航先であった青島や舟山など、中国の他地域の港や都市とは厳密に区別していた。現地の社会の状況を説明していた海軍軍人の観点からは、租借地として日本の勢力圏内に位置づけられた関東州は、内地同然の地域と認識されていた。
  • 旅大回収運動
    • 運動の経緯
      • 1922年5月直隷派が北京政府掌握、6月国会議員刷新、11月「中日21個条約無効宣布案」を建議し満場一致で可決、23年1月19日参議院も建議案を可決、国務院に咨達して該条約の無効を宣布せんことを請願、1月23日上海『申報』で在関東州の全中国人の名義で旅大回収に対する全中国の支援を訴える、大連市内にも租借延長反対のビラが多く流布される。
    • 張作霖の態度
      • 当時満洲を支配していたのは張作霖であったが旅大回収運動に対しては目的達成を疑問視。実力者の支持を欠いた旅大回収運動は沈静化。

第二節 満鉄の存在

  • 満鉄による艦隊側への配慮
    • 関東州における満鉄の影響力は大きく、艦隊の関東州巡航にも深く関与。艦隊が関東州へ巡航する際、地方側の歓迎方法は、主に満鉄、大連民政署、大連警務署、商業会議所、海務協会、大連市役所の代表による協議での決定だった。歓迎方法には満鉄が関連しているものばかりであった。満鉄は艦隊側に満洲見学の機会を与え、将兵のために列車を手配した。
  • 満鉄による関東州民衆への配慮
    • 関東州民衆の軍艦便乗見学のために臨時列車を運転した。1925年からは関東州以外の学生の見学参加のために満鉄北部沿線の学生に乗車割引を提供した。
    • 軍艦の一般好悪華夷について見学者の利便を向上させるために海軍側に要望することもあった。1921年の艦隊帰港の際には全軍艦が大連湾に停泊し埠頭には繋留しなかったので、翌22年には海軍に見学用の軍艦を岸壁に繋留することを要請した。海軍は満鉄の要請を受けて「矢矧」を繋留させて参観のために開放した。以降、1隻から数隻の軍艦を繋留して一般公開することが慣例となった。

第三節 中国との接点

  • 海軍の関東州巡航の外交的性質
    • 1921年の関東州巡航
      • 軍艦の参観に関し、中国人の参観も積極的に受け入れる。
    • 1924年の関東州巡航
      • 加藤寛治司令長官が軍縮に対する態度及び今度の巡航の目的について説明。軍縮に頼る平和は長久に維持することが期待できず、海軍は国家の安全に対して必要不可欠の存在であると強調し、今度の巡航は国民に海軍の威力を示すと同時に中国人と修交するつもりで、市民との直接の接触を通してその理解と支持を得たいと述べる。
      • 4月6日関東州当地の中国人有力者が艦隊参観に招待される。4月9日午後2時関東州内の各会屯長並びに各公議会長、各学堂長等百余名が「金剛」に乗艦し加藤と面会。加藤は日華両国が一心同体となり親善提携せなばならぬと述べる。
      • 1924年3月は「旅大租期届満一周年」というスローガンで旅大回収運動と類似の運動が展開されており、この時期に関東州の中国人有力者を艦上に招待することは、海軍自身が外交的な役割を果たしていたことと、関東州当局が海軍を利用して現地中国人に威容を示すための活動だった。海軍と関東州当局の行動がまさに艦隊の武力を中国人に見せつけることに力点を置いたものだった。
  • 礼砲
    • 1925年に関東州から出航して、青島に入港した「霧島」は支那国旗に礼砲21発を行い支那軍船「海圻」より同数の答砲を受け、続いて「海圻」は「霧島」将旗に15発の礼砲を行い「霧島」は同数の答砲を行う。中国側の軍艦「海圻」は1897年進水の老朽化した防護巡洋艦だったが日本の艦隊と対等な外交儀礼を行なう。
  • 海軍将兵の中国内でのふるまい
    • 1926年4月艦隊が青島に帰港して乗組員が上陸。海軍将兵の上陸後の行動について、市中に於ける規律ある態度は支那兵士や外国水兵と比べて格段の差ががあるとされ、巡航行動の外交的側面を示唆。海軍の巡航は官民の融和に資し、支那官民に極めて良好なる印象を与えた。

第四節 大規模な軍艦便乗見学

  • 関東州巡航の特徴の一つが大規模な軍艦便乗見学
    • 最初の便乗見学は1921年に実現。第二艦隊は8月22日に大連に入港。それ以前の8月5日に大連海務協会が海軍側に便乗許可を求めていた。軍艦便乗は一般民衆にとって魅力的なものであった。8月14日『大連新聞』に記事が掲載されてからすぐに申込者が3000人に達し実際の便乗者は2000人に達した。
    • その後、1924年3358人、25年5018人、26年3232人、27年4062人、28年3662人、29年約3000人、30年約1760人、31年約3600人、32年3240人、34年6011人が軍艦に便乗。便乗応募の範囲も関東州に限らず、満鉄沿線の各都市に拡大していた。
  • 関東州における軍艦便乗の歴史的意義意義
    • 関東州での軍艦一般公開と便乗見学活動が長期間実施されてきたのは、地方側の海軍に対する熱烈な歓迎と海軍の積極的な協力という相互作用によるものだった。

第三章 関東州巡航のもたらすもの

  • 海軍側の意図
    • 休養
      • 艦隊が大連や旅順に帰港する最大の目的は兵員の休養と物資の補充。その要因は海上生活の艱苦。大連などへの帰港は、乗組員の辛さを癒すものだった。
    • 教育
      • 海軍内部の日露戦争の経験者が減少しているという現状に対して、戦争の記憶を風化させないためにも、関東州巡航の精神教育という側面が強調される。
      • 長い航海後の陸上での休憩や戦跡見学は、艦隊乗組員の士気の保持と向上に非常に有効。
      • 普通の水兵にとっても、関東州巡航は海軍生活の中で唯一の外遊する機会。この機会を最大限に利用して一度の巡航で多様な目的を達成するのが関東州巡航を実施した海軍の意図。
  • 現地の反応
    • ①学生
      • 1925年の大規模見学に際して編纂された『聯合艦隊学生便乗見学記念誌』に収録された学生の感想文では日中両国学生の艦隊に対する認識の相違点が瞭然としていた。
      • 日本人も中国人も海軍の巨大な戦艦及び規律正しい軍人に讃嘆しており、日本学生の多くは海軍軍人になりたいと希望し、中国人学生の大部分は既に民族意識から日本海軍の力に感服すると同時に、自国の未来について考えていた。
    • ②学生以外
      • 満鉄弘報係係長の高柳保太郎氏のラジオ講演(1926年)→艦隊来航の目的について主に演習と指摘する一方、動乱の続く中国大陸で生活している日本人居留民の保護も示唆。造艦費用を提供する国民と海軍のつながりを提示しつつ海軍を歓迎する意味を強調。
      • 『関東報』の中国人記者(1925年)→辛亥革命以後の中国は軍閥割拠の状態になり清国艦隊を母体とする中国海軍も分裂。各軍閥は海軍を奪い合った。当時の中国海軍は混乱する国内情勢の縮図だった。中国海軍の全兵力を結集しても敵わない外国の巨艦を目にした人々は中国の将来を悲観していた。「海圻」を獲得した張学良も自国の将来に対する危機感は『関東報』の記者と変わりなかった。

おわりに

  • 関東州巡航が持つ意味
    • 関東州への巡航は対内的広報活動と対外的「砲艦外交」という二重性が内包されていた。海軍は艦隊行動を通して自身の広報活動を実践した一方、外交手段による政治目的を達成するという理想的軍事理念を追求していた。
    • 艦隊行動の効果は当地の日本人と中国人にとって大きな差があった。壮大な艦隊を目にした日本人は自らの満洲での生活の後ろ盾としての海軍という事実を自覚していた一方、関東州在住の多くの中国人は自国の現状を顧みて苦悩し、将来の国力の増強を願っていたという明確な意識差があった。