- 本稿の趣旨
- 関東州巡航は、平時訓練や演習を意図して実施された。平時任務以外にも、広報、外交、乗組員の精神教育や休養といった様々な目的があった。艦隊行動は日本人居留民と現地民に異なる効果をもたらした。日本人居留民は自らの生活の後ろ盾としての海軍という事実を自覚したが、中国人は自国の現状を顧みて苦悩し将来の国力増強を願った。同じ艦隊を見ていても関東州の中国人と日本人では艦隊に対するイメージが大きく異なっていた。
はじめに
- 本稿の意義
- 関東州
- 艦隊行動
- 本稿の目的
- 第一次大戦後の大正期を中心に、海軍主要艦隊の平時の行動海域に着目し、特に関東州巡航を取り上げ、海軍艦隊の平時訓練海域、出航中の帰港状況及び関東州巡航の意義について分析する
第一章 関東州への巡航
第一節 艦隊の平時任務と巡航
- 艦隊の平時任務
- 戦間期に数回の改定がなされたが、1919年段階では「第一、第二、第三艦隊ハ専ラ教育訓練ニ従事シテ兼テ行動区域内沿海及流域ノ警備ニ任ス」と規定されていた。艦隊は、平時においては教育・訓練を行いつつ、行動区域内の警備に従事することが求められ、その他、演習と検閲が定期的になされることとなった。
- 平時海軍における巡航の位置づけ
- 平時任務における教育と訓練は各々が独立している任務ではなく、密接不可分の任務として遂行されていた。こうした任務を遂行するための手段として巡航は平時海軍の活動において重要な位置を占めていた。
第二節 巡航区域の決定と外国巡航
第三節 関東州巡航のはじまりと巡航中の帰港地
- 関東州巡航の実施年代
- 初の派遣…日本が関東州租借地を獲得した直後から開始された。1905年9月のポーツマス条約調印後の翌年7月、海軍は第二艦隊を大連へ初めて派遣した。
- 2度目の派遣…1910年4月、定期演習を巡航目的とした第二艦隊が大連と旅順に帰港。
- 初めて軍艦を大連市民に公開…1912年1月に第二艦隊を関東州へ派遣。同艦隊が中国の華南へ出航した後、第一艦隊が関東州へ派遣され、この時初めて軍艦を大連市民に公開。
- その後の派遣…1913年4月第一艦隊、1916年3月第三艦隊の一部、1917年4月第二艦隊、1919年第二艦隊
- 第一次世界大戦後の派遣…1920年、23年を除き32年に至るまで毎年艦隊を派遣し、関東州巡航がほぼ定例化していた。
- 関東州巡航の終わり…1933年に連合艦隊の行動予定が変更されたことによって、春季においては関東州に代わり、南西諸島方面へと巡航先が変更された。34年9月には再び関東州への巡航が復活したが、これ以降、日中戦争勃発まで再度巡航が行われることはばかった。
- 帰港状況
- 戦間期の海軍の関東州巡航は基本的に訓練の一環という位置づけであり、大連や旅順に帰港した第一の目的は兵員の急用と物資の補充。内地での帰港と同様に、関東州へ巡航した艦隊の乗組員らも上陸の機会を利用し、大連の市街で休養した。
- 当時の大連は満洲で随一の大都市であり、商業面も娯楽面も繁栄していた。消費都市の一面も有する大連ではモダンなカフェ、電気遊園地、映画館などの施設も完備していた。
- 艦隊の帰港による将兵の上陸という商機は大連市民にとって好機だった。大連市民は帰港した海軍に好意的なイメージを持っていたことがうかがえる。
- 日本人居留民だけでなく現地の中国人も同様であり、艦隊の来航に喜ぶ中国人商人が多かった一方で、「旅大回収」運動を呼びかけた中国人も多く、関東州が中国大陸における租借地という特殊な地域であることに変わりなかった。
第二章 関東州巡航の特徴
第一節 関東州の状況について
- 関東州に対する海軍の認識
第二節 満鉄の存在
- 満鉄による艦隊側への配慮
- 満鉄による関東州民衆への配慮
- 関東州民衆の軍艦便乗見学のために臨時列車を運転した。1925年からは関東州以外の学生の見学参加のために満鉄北部沿線の学生に乗車割引を提供した。
- 軍艦の一般好悪華夷について見学者の利便を向上させるために海軍側に要望することもあった。1921年の艦隊帰港の際には全軍艦が大連湾に停泊し埠頭には繋留しなかったので、翌22年には海軍に見学用の軍艦を岸壁に繋留することを要請した。海軍は満鉄の要請を受けて「矢矧」を繋留させて参観のために開放した。以降、1隻から数隻の軍艦を繋留して一般公開することが慣例となった。
第三節 中国との接点
- 海軍の関東州巡航の外交的性質
- 1921年の関東州巡航
- 軍艦の参観に関し、中国人の参観も積極的に受け入れる。
- 1924年の関東州巡航
- 加藤寛治司令長官が軍縮に対する態度及び今度の巡航の目的について説明。軍縮に頼る平和は長久に維持することが期待できず、海軍は国家の安全に対して必要不可欠の存在であると強調し、今度の巡航は国民に海軍の威力を示すと同時に中国人と修交するつもりで、市民との直接の接触を通してその理解と支持を得たいと述べる。
- 4月6日関東州当地の中国人有力者が艦隊参観に招待される。4月9日午後2時関東州内の各会屯長並びに各公議会長、各学堂長等百余名が「金剛」に乗艦し加藤と面会。加藤は日華両国が一心同体となり親善提携せなばならぬと述べる。
- 1924年3月は「旅大租期届満一周年」というスローガンで旅大回収運動と類似の運動が展開されており、この時期に関東州の中国人有力者を艦上に招待することは、海軍自身が外交的な役割を果たしていたことと、関東州当局が海軍を利用して現地中国人に威容を示すための活動だった。海軍と関東州当局の行動がまさに艦隊の武力を中国人に見せつけることに力点を置いたものだった。
- 1921年の関東州巡航
- 海軍と張作霖
第四節 大規模な軍艦便乗見学
- 関東州巡航の特徴の一つが大規模な軍艦便乗見学
- 関東州における軍艦便乗の歴史的意義意義
- 関東州での軍艦一般公開と便乗見学活動が長期間実施されてきたのは、地方側の海軍に対する熱烈な歓迎と海軍の積極的な協力という相互作用によるものだった。
第三章 関東州巡航のもたらすもの
- 海軍側の意図
- 現地の反応
- ①学生
- ②学生以外
おわりに
- 関東州巡航が持つ意味
- 軍縮期の海軍の存在証明
- 第一次世界大戦が終結し、ワシントン海軍軍縮条約が締結され、「海軍休日」の中の海軍は、巨大な艦隊の平時運用に関して、自分なりの道を模索した。災害救助、観艦式の公開など多様な行動と並んで、関東州巡航もその一つだった。