雑録

寺田寅彦『柿の種』(岩波文庫 1996年)の感想

大正9年昭和10年寺田寅彦が俳句雑誌「渋柿」の巻頭第一ページに書いた即興的漫筆の寄せ集め。
以下「自序」におけるこの本の趣旨の説明。

…言わば書信集か、あるいは日記の断片のようなものに過ぎないのである。しかし、これだけ集めてみて、そうしてそれを、そういう一つの全体として客観して見ると、その間に一人の人間を通してみた現代世相の推移の反映のようなものも視られるようである。そういう意味で読んでもらえるものならば、これを上梓するのも全く無用ではあるまいと思った次第である……

面白かったところなどの抜き書き

ひとりよがりの文章

…道端に、小さなふろしきを一枚しいて、その上にがま口を五つ六つ並べ、そのそばにしゃがんで、何かしきりにしゃべっている男があった。往来人はおりからまれで、たまに通りかかる人も、だれ一人、この商人を見向いて見ようとはしなかった。それでも、この男は、あたかも自分の前に少なくとも五、六人の顧客を控えてでもいるような意気込みでしゃべっていた・・めったに人の評価してくれない、あるいは見てもくれない文章を書いたり絵をかいたりするのも、考えてみれば、やはりこの道路商人のひとり言と同じようなものである。

規制をかければその穴をかいくぐる合法性を探す

平和会議の結果として、ドイツでは、発動機を使った飛行機の使用製作を制限された。するとドイツ人はすぐに発動機なしで、もちろん水素なども使わず、ただ風の弛張と上昇気流を利用するだけで上空を翔けり歩く研究を始めた……詩人をいじめると詩が生まれるように、科学者をいじめると、いろいろな発明や発見が生まれるのである。

認識領域の拡大

…ヴァイオリンをやっていたのが、セロを初めるようになって、ふた月三月ヴァイオリンには触れないで毎日セロばかりやっている。そして久しぶりにヴァイオリンを持ってみると、第一その目方の軽いのに驚く。まるで団扇でも持つようにしか感ぜられない……そういう異様な感じは、いつとなく消えてしまって、ヴァイオリンはヴァイオリン、セロはセロとおのおのの正当な大きさの概念が確実に認識されて来るのである。俳句をやる人は、時には短歌や長詩も試み、歌人詩人は俳句もやってみる必要がありはしないか。

教育者の教育

…自分の想像するところでは、結局教科書を編纂する機関の中に科学的な頭脳とその主動的な要素が欠如しているのではないかと思われる。もしかこの想像がいくぶんでも当たっているとしたら、はなはだ逆説的な言い分ではあるが、小学生を教える前にまず文部省を教育しなければならないのだとも言われるかもしれない……児童教育より前にやはりおとなであるところの教育者ならびに教育の事をつかさどる為政者を教育するのが肝要かもしれない。

新卒教員や若手研究者にありがちなこと

学校を卒業したばかりの秀才が先生になって講義をするととかく講義がむつかしくなりやすい。これにはいろいろの理由があるが、一つには自分の歩いて来た遠い道の遠かったことを忘れるというせいもあるらしい。若い学者が研究論文を書くと、とかくひとり合点で説明を省略し過ぎて、人がよむとわかりにくいものにしてしまう場合が多い。これもいろいろの理由があるが、一つには自分がはじめてはいった社会の先進者の頭の頭脳を高く見積もり過ぎたるためもあるらしい。

日本でベンチャー企業が育たない理由

…日本人の出した独創的な破天荒なイデーは国内では爆発物以上に危険視される。しかし同じ考えが西洋人によって実現され成功するのを見ると、はじめてやっと安心して、そろそろとその成果の模倣をはじめる。「外国のに劣らぬものができた」というのが最高の誇りである。しかしそれができたころには外国ではもう次の世界一が半分できかかっている。

社会的成功をおさめると駄目だな

……今までは生活の不如意に耐えながらわき目もふらずに努力の一路を進んで来たのが、いくらかの成功に恵まれて少し心がゆるんでくる……そうすると…今まで張り詰めていた心がやっとゆるむころには、その健康はもはや臨界点近くまでむしばまれていて、気のゆるむのと同時に一時に発した疲れのために朽ち木のように倒れる。そういう場合もかなりありうるわけである……植物が花を咲かせ実を結ぶ時はやがて枯死する時である。それとこれとは少しわけは違うがどこか似たところもないではない。いつまでも花を咲かせないで適当に貧乏しながら適当に働く。平凡なようであるが長生きの道はやはりこれ以外にはないようである。