雑録

『日本交通公社七〇年史』(日本交通公社、1982年)

明治45年3月に設立されたジャパン・ツーリスト・ビューローは、当初は、欧米人観光客を日本に誘致し、日本の文明度の高さを海外に知らしめると共に外貨獲得を目的としていた。だがしかし、旅行ブームの進展とともに邦人客への代売も担うようになっていった。昭和9年日本旅行協会と合併したジャパン・ツーリスト・ビューローは、一段と積極的に邦人客あっ旋事業と旅行文化向上の業務に踏み出していく。昭和16年6月、日中戦争の進展により中国や満洲の旅客も増えると「東亜旅行社」と改名。さらに、昭和18年になると戦時下に「旅行」はふさわしくないということで「東亜交通公社」となり、昭和19年4月に一般の旅行は禁止された。だが、公的な輸送は続けられ、インフレの影響もあり、発売高は多額にのぼった。

以下、本文抜粋

外客誘致機関からの始まり
  • 喜賓会の成立と解散(8,11頁)
    • 「〔……〕その年(明治20年−引用者)の秋ごろ、三井高保に随行して、欧米視察の途上にあった三井の大番頭益田孝は、花のパリで、同じ欧米視察の旅に出ていた渋澤栄一に出会い、新生日本の将来について語り合う機会をもった。〔……〕外人観光客の日本への誘致の可能性について大いに触発され、外客誘致機関の設置に関する構想が二人の間にふくらんでいったのである。こうして、6年後の明治26年3月、わが国初の外客誘致機関である「喜賓会」の設立をみたのである。〔……〕喜賓会は、ビューローの創立により、その使命を終えたとして、大正3年3月末日をもって解散した。これに先立ち、渋澤より喜賓会の財産、事務員の引継方要請があったが、ビューローが独自の構想をもっていたため、これを辞退した。〔……〕このような経緯のため、喜賓会をビューローの前身とみることは必ずしも正確ではない〔……〕」
  • 原敬ジャパン・ツーリスト・ビューローの創立(12-13頁)
    • 明治43年4月、スイスのベルンで開かれた第8回万国鉄道会議に出席した鉄道院の副総裁平井晴二郎は、西欧諸国の観光事業を視察して帰朝してから〔……〕「外客誘致の事業は、国鉄が中心となって強力に推進すべきだ」と考えたのである。〔……〕鉄道院副総裁の平井晴二郎が中心となり、日本郵船林民雄、東洋汽船白石元治郎、帝国ホテル林愛作らの援助の下に、満鉄、大阪商船など、有志が国家的事業として各自出資して外客誘致の会を発足することになった。その際、大切な条件は有力な資金援助であった。そこで平井は、木下を帯同して、明治45年1月、時の鉄道院総裁の原敬を官邸に訪ねて、外客誘致の必要性とそのあっ旋機関設立の趣旨を説いた。〔……〕原敬は、木下の提出した予算にさっと目を通し、「年額の予算五万円のうち、半分の2万5000円を鉄道会計で引きうけよう」即決で承認したのである。この力強い一言で、ジャパン・ツーリスト・ビューローの創立は決定したのである。鉄道院の出資に伴って、朝鮮鉄道、その他私鉄関係も、順調に出資が決り、いっぽう、汽船、ホテルなどの出資も予定通りに進み、渋澤栄一大隈重信後藤新平阪谷芳郎など有力者の援助もあって、明治45年3月、創立の運びとなったのである。」
邦人客への広がり
  • 「旅程と費用概算」(28頁)
    • 大正8年「ツーリスト」の付録版として出した和文の避暑地紹介としての「旅程と費用概算」が、好評を博したので、翌9年には、内容を一新して避暑客だけでなく四季を通じての一般旅客のための旅行案内書として出版したところ、前年にもまして好評で、以来毎年改訂増補を続けて今日に及んでいる。この書はビューロー最初の邦文案内書として記念すべきものである。」
  • 一般邦人客への代売開始(33,34頁)
    • 第一次世界大戦終結大正7年の11月から、日支連絡、日支周遊、日満連絡、日鮮満巡遊等のごく限られた特種の連絡券を一般邦人客に対しても発売を開始するにいたり、この時以来ビューロー事業の重点は、外客誘致宣伝事業から代売あっ旋事業への傾斜をはじめる。〔……〕大正14年からは、いよいよ邦人客に、省線の一般乗車券および遊覧券の発売を始めた。それまで外人客中心に切符の代売を行っていたビューローにとってあたらしい分野開拓であったといえる。」
  • 案内所の増設(34,35頁)
    • 「〔……〕当時は、案内所が横浜、神戸、下関、長崎など外人向けの地域にかたよっていたので、邦人向け省線乗車券の発売には不向きであった。そこで、案内所の市中進出を図ることとなり、まず大正14年9月から日本橋三越内に案内所を開設することになった。〔……〕日本橋三越内に案内所を開発したのに次いで、銀座松屋、大阪三越にも進出、15年には京都および大阪の大丸に案内所を設けた。昭和に入り、デパートへの出店はさらに増加し、デパートのあるところ、必ずビューローの案内所あり、というイメージになったとさえいえる。」
  • ジャパン・ツーリスト・ビューロー札幌案内所(35頁)
    • 「札幌案内所は、昭和6年4月15日、札幌の今井百貨店本店内に開設された。ビューローの北海道進出の最初であった。この年、5月1日から三越が札幌に進出予定となっていたので、対策に苦慮した同百貨店は、家賃、電灯料、設備費用など一切を負担するという条件でビューローの出店を要請、これに応じて案内所の開設となった。初代の札幌案内所長は、札幌鉄道局制度掛の後藤恒三郎が兼務した。後藤はこの時の縁で後年ビューロー入りし、戦後、社の北海道支社長となり、昭和30年1月には理事に任ぜられ、同年10月27日死去するまで社の北海道地区の発展に尽した。最初は売上も寒々としたものであったが、札幌案内所では、開設の翌年から切符の無料配達もはじめて売り上げが伸び、間もなく収支のバランスがとれるようになった。」
  • 事業の転換期 国際観光局の創設と海外宣伝業務の移譲(40頁)
    • 「〔……〕昭和5年には、官設の外客誘致に関する中央機関である国際観光局が鉄道省の外局として創設される。これに伴い、ビューローの海外観光宣伝業務をこれに移譲し、その後はもっぱら内外旅客のあっ旋と国内旅行文化の向上に重点をおくこととなり、ビューローの事業における一つの転換期となった。」
  • 特筆すべき社業拡大の時 日本旅行協会とジャパン・ツーリスト・ビューローの合併(42-45頁)
    • 「〔……〕ビューローとは別個に、関東大震災の翌年、鉄道省内に「日本旅行文化協会」が設立されている。〔……〕本会発足の動機は、大正に入ってから急速に邦人旅行者が増加し、各地に諸種の旅行倶楽部の組織ができ、その数は数百をかぞえるようになって、それらが全国的な提携を旅行機関の必要を感じ、協会の設立に尽力した。〔……〕大正13年に組織され、「旅」を機関誌としてスタートを切った日本旅行文化協会は、出版活動に主力をおきながら、その二年後には「汽車時刻表」なども発行したが、大正15年11月25日、「文化」を取り去り、「日本旅行協会」と改称した。ところが、昭和に入ってから、この協会の実態は、ビューローの業務の一部と日本旅行倶楽部(大正9年設立)の意図するところと重複するという見方が強まり、当時の専務理事であった高久甚之助は、ビューローとの合併を提案していた。〔……〕ついに昭和9年10月ビューローと日本旅行協会との合併が実現した。両者は同格のかたちで合併し、社名も併記するかたちで次のように表示することとなった。「社団法人 ジャパン・ツーリスト・ビューロー 日本旅行協会 」 もともと外客あっ旋を目的に設立されたジャパン・ツーリスト・ビューローであったが、今回はじめて和文の社名をも持つこととなり、ここに一段と積極的に邦人客あっ旋事業と旅行文化向上の業務に踏み出した。この意味で昭和9年の秋は、戦前におけるビューロー史上、特筆すべき社業拡大の時であったといえよう。」
  • 世界恐慌による円貨暴落で訪日外客が増加!! 国際観光ブーム(49頁)
    • 昭和9年に入ると、世界的恐慌もようやく好転し、そのうえ日本が金本位を離脱したこと、加えて国際連盟を脱退したことから円貨が暴落し、米英が40?台のところを日本は60?の下落率を示した。このことは、訪日外客にとっては好都合であったので、訪日外客は昭和8年2万6264人であったのが、急速に増加し、昭和10年には4万2629人と、ほぼ倍増して、国際観光ブームを迎えることとなった。〔……〕昭和11年には訪日外客4万2568人、その消費額1億768万円となり、待望の1億円を突破、綿織物(4億8300万円)、生糸(3億9200万年)人絹織物(1億4900万円)に次いで、外貨獲得の第4位を占めるにいたった。」
明治・大正・昭和の旅
  • 明治以前江戸期の旅(62頁)
    • 「〔……〕今日の意味で"旅"といわれるようになったのは、東海、中山、日光、甲州、奥州の五街道が発達し、宿駅に本陣、旅籠などが整備されていく江戸時代に入ってからである。とはいえ、この時代の旅も、信仰の旅といってよく、神社仏閣に参詣する旅が主であった。それは、幕府の意向として百姓、町人などの庶民は、関所があって自由に旅行することがむずかしく、参詣はの旅だけが比較的許されていたからである〔……〕」
  • 【明治】小説の舞台と温泉ブーム(62-63頁)
    • 「明治5年、新橋・横浜間に鉄道が開設されて以来、全国に鉄道網が敷設されていった。〔……〕これまで草履ばきで苦労して歩いていったところを、汽車に乗って行けるようになったのであるから、旅は、その珍しさも手伝って楽しいものとなった。東京周辺では伊香保草津、熱海、箱根などの温泉地が、鉄道の開通とともに湯治客でまず賑わい、温泉ブームとなった。都会人の関心の的となったこの行楽地が、小説の舞台に次々と登場する。尾崎紅葉の「金色夜叉」で貫一とお宮が熱海の海岸を散歩することとなり、徳富蘆花の「不如帰」で武男と浪子が新婚旅行に行った場所が、伊香保温泉に設定される。明治31年のことである。こうした名作によって、熱海や伊香保はさらに有名になっていった。」
  • 【大正】紀行文による山水ブームと大衆化(65-66頁)
    • 「大正に入ると、田山(※田山花袋−引用者)、大町(※大町桂月)などによって「山水小記」「山水大観」「山水処々」というように続々山水に関する出版物が出て、山水ブームをまきおこした。これは都会に住む人々が、都会から失われていく自然を山に海に求めるようになったからで、かくして都会人の目は、いっせいに全国の山水に注がれたのである。そこには、日本人がいままで気づかずにいた世界一美しい山水の風景があったのである。田山、大町らを先頭に多くの旅行家が、全国の山水を探り、新しい風景を発見していった。」
    • 「大正の旅は、こうして大衆化の道をたどり、明治45年外客誘致の目的で発足したツーリスト・ビューローが、日本人の旅行あっ旋に乗り出していくのも、ちょうど、このころのことである。」
  • 【昭和(1)】観光雑誌と大衆の旅行熱の高まり(66頁)
    • 「昭和に入って、旅行の快適さが進むとともに、大衆の旅行熱は高まっていった。また同時に、大正の"山水"の探勝だけでなく、史蹟、古美術、民俗、伝説、天然記念物さらには民謡、民芸といった趣味の旅の要素が加わる。博文館が、「古社時をたずねて」「古跡めぐり」「伝説をたずねて」といった"趣味の旅"シリーズを出版し、広く大衆に読まれたのが昭和2年からである。」
  • 【昭和(2)】戦争と観光国策(66頁)
    • 「〔……〕昭和12年7月7日、日中事変の勃発とともに、これまでの享楽的な旅行の観念を一掃して、時局を再認識し、心身を鍛錬する「国策旅行」が前面に押しだされていく。敬神崇祖の聖地、国体の精華を物語る史蹟、偉人の遺跡などを選んで、青少年の徒歩旅行を奨励し、温泉地は、傷病兵のための療養、産業戦士のための厚生に転向することなるなど、旅行も戦争目的にそわなければならなくなる。」
満州におけるジャパン・ツーリスト・ビューロー
  • 満州支部における現地採用(67-69頁)
    • 満州支部では、満洲国の建設によって、日中戦争の翌年早くも求人難に陥り、新規採用者を内地に求めなければならなくなった。しかし、これに加え諸物価の高騰は支部員の生活を脅かし、離職者があい次ぎ、邦人社員の新規採用がますます困難となったため、満洲華北における現地採用に方針を変え、満・華・露人及び婦人を多数採用して日系男子支部員に代替させることとなった。〔……〕大陸事業の拡大に伴って現地の採用が活発となり、昭和17年の初め頃には、満洲支社だけでも200名を超え、華北、華中を加えると約400名にも達し、この中には、中堅クラスとして登用されるものもいて、中国人社員は各案内所における業務の推進に欠かせぬ重要な役割を担っていた。」
  • 満州における旅行事業(70頁)
    • 満州における旅行事業を創業当時から概観すれば、大連支部が南満洲鉄道株式会社の運輸部内に設置されたのは、ビューロー発足後間もない大正元年11月1日のことであった。満鉄社員に業務を委嘱し、支部長内には満鉄社長をあてた。次いで大正3年3月大連ヤマトホテル、旅順駅、奉天ヤマトホテル、長春ヤマトホテルにそれぞれ嘱託案内所を設け、以後、毎年、本部より2000円の経費を支給して外人あっ旋を行っていたのである。満鉄の創立は明治38年で、日露戦争講和条約によって、長春・大連間の鉄道を中国より譲りうけたもので、沿線の防衛権及び鉄道附属地の使用などの権益を得て運営を開始し、日本の満洲経営の根幹となっていたのである。当時、関東軍は、満洲を中国本土より切り離して、日本の領有として、ここに、対ソ防衛地帯を築くという構想をもっていたとされている。」
  • 昭和2年5月 大連支部の独立(70-71頁)
    • 「〔……〕満鉄では、日満間の旅客が激増しシベリア経由の旅客も増加の傾向にあったので、このさい、シベリア、満州中華民国を大連支部の管轄とし、会計は本部より独立させるという結論に達し、この要請をうけて、本部では、大正15年4月20日の理事会で、大連支部の独立会計を決定した。〔……〕大連支部は、本部より会計を独立して、大連、奉天長春、安東、哈爾浜、青島、上海、北京に案内所を設置し、乗車券代売を開始した。昭和2年5月には、満鉄社員に委嘱していたビューロー業務を満鉄から切り離し、大連支部従事員として正式に任命した。ここに独立会計によって本部から分離した大連支部は人事上でも満鉄を離れて完全な独立機関となった。」
  • 昭和6年 満州事変(71頁)
    • 昭和6年満州事変が勃発、満州国が樹立されるに及んで、日満間の往来も激しくなり、案内所の利用者は激増、乗車券の発売も増加した。」
  • 昭和9年 「旅行満州」(71頁)
    • 昭和9年7月より雑誌「旅行満州」を発刊して宣伝に努め、また汽車時間表は、満州、朝鮮、中国全部の鉄道、汽船、航空、自動車の運行時間、運賃を収めて発行、また「日本遊覧指南」などの案内書も発行した。」
  • 昭和10年 北満鉄道、満洲国に譲渡(71頁)
    • 昭和10年3月23日、北満鉄道が満州国に譲渡され、その経営は満鉄に委嘱された。このため、4月哈爾浜及び満州里の二案内を拡張増員し、欧亜連絡旅客のあっ旋に努めた。昭和11年には満洲支部と改称、案内所17、出張所7、駐在員2、代理店2となり、11年3月末の総人員は271名、12年3月末には321名となり、支部独立時の48名にくらべ10年にして6倍以上となったのである。」
  • 昭和12年 日中戦争勃発(71頁)
    • 昭和12年7月7日、日中戦争が勃発し、東亜の情勢は一変する。昭和13年度は、中国大陸の各地にビューロー網を強化して、大増員を行った。第一期の華北、華中拡大計画に対処して、満州各地から優秀な従事員数十名を華北、華中に進出させた。6月張家口、11月石家荘、済南、大同に案内所を新設し、9月に蘇州、厚和、2月に漢口、延吉に駐在員を派遣し、11月には北京に王府井出張所を設置した。昭和14年7月には間島省の中心地である延吉、8月には東辺道要衝の通化山西省首都の太原に、11月には羅津、12月には華中の漢口に、15年1月には蒙古の厚和にそれぞれ案内所を開設した。」
  • 満州支部の繁栄(73頁)
    • 満州支部は、こうして日本の大陸進出とともに発展していった。昭和5年には本部従事員100名に対し満州支部は104名となり、昭和15年には本部923名に対し1047名と、はるかに上回った。満州支部の乗車船券代売額にも、満州の繁栄が示され、昭和11年度1196万円だったのが日中戦争のはじまった12年には1414万円となり、13年には、2557万円と、ほとんど倍増し、14年4596万円、15年には6696万円という急上昇を示している。」
  • 産業開発5カ年計画 豊満ダムと苦力輸送(74頁)
    • 満州国で、産業開発5か年計画がはじまったのは昭和9年のことである。まず松花江の支流をせきとめて、北満吉林の東南24キロの地点に豊満ダムが建設されることになった。幅150メートル、高さ91メートルという雄大なもので、完成の暁には、琵琶湖に匹敵する一大人造湖ができ、最大出力70万キロワット、年間30億キロワットの電力を供給するし、松花江の洪水を防ぎ、広大な水田を開発するという計画であった。このダム建設には膨大な労働力が必要とされ、最盛時には1日約1万5000人の中国人労働者(苦力)が働いていた。その労働者の輸送をあっ旋したのもビューローの満州支部である。満州における特殊事情であった。」
  • 入満華工の輸送(75頁)
    • 昭和10年代前半には毎年約百万人が春から結氷期の冬近くまで働いて、また北支に帰っていく移動をくり返した。この出稼ぎ労働者が供給地から需要地へ円滑に移動できるようにすることも、当時ビューローに課せられた仕事であった。"入満華工"のあっ旋は、昭和9ごろから山海関案内所が担当したが、その後、北京、天津でも業務の一部となった。昭和12年にいたり、日中戦争が起こるに及び産業開発は鉱工部門重点主義となり、その基礎となる労働力の確保はますます重要視され、労働力の根幹となる華工の大量供給が要望されるようになった。」
戦時下におけるジャパン・ツーリスト・ビューロー
  • 日中戦争の旅行制限でも旅行は盛ん(75頁)
    • 日中戦争の発生以来、団体旅行は制限された。しかし現実には、戦争の進展とともに、軍需景気の影響もあって、国民の一部は余暇を旅行に求めて行楽客の動きは次第に上昇しており、週末の温泉地は、どこも満員の盛況であった。」
  • 昭和15年の旅行制限(76頁)
    • 昭和15年になると、鉄道省は「不要不急の旅行は遠慮して国策輸送に御協力下さい」というポスターを各駅に張り出して、旅行の制限に乗り出さざるを得なくなった。さらに、遊覧割引の中止、近距離旅客の急行乗車制限、修学旅行の停止、贈答品輸送の禁止、スキーの社内持ち込み禁止と次々と乗車制限が打ち出されたが、昭和15年といえば紀元2600年で、国内には軍事色が濃厚となり、享楽的な旅行は制約を受けはじめていた。」
  • 紀元2600年祝典輸送(78-79頁)
    • 「重苦しい戦争が続くなかで、ビューローにとってもひときわ華やかで盛大な業務であったのは、紀元2600年祝典輸送あっ旋であった。昭和15年11月に、国民精神作興という意図によって、紀元2600年祝典が全国的に盛大に行われたが、ビューローは、祝典関係の団体あっ旋を一手に引き受けた。」
    • 「この業務は、二万余の式典参列者の宿舎あっ旋が大仕事で、もうひとつは、大和の橿原神宮、九州の宮崎神宮などへの参拝者の輸送と宿泊の手配作業が伴った。さらに聖地参拝団体は、すべてビューローの主催団体ということになったので、半ば国家的な仕事であった。」
    • 「この時期の国民の気持ちも手伝って参拝団は、内地だけでなく、朝鮮、台湾、満州に及び、取扱団体1万6600件、24万437人、あっ旋客数490万人に達した。」
  • 財団法人「東亜旅行社」に改組(79-80頁)
  • 太平洋戦争の開始とビューローの南方進出(80頁)
    • 昭和16年12月8日、日本は米英に宣戦布告し、太平洋戦争がはじまった。戦争の開始とともに、諸外国人の日本への出入は絶え、旅行あっ旋は、国内と大陸との連絡だけに局限された。いっぽう、シンガポールの陥落に次いで南方占領地域が拡大するにつれ、昭和17年初めから、日本全体の企業が新体制を要求されはじめていた。その結果、日本と中国大陸と南方諸国との文化交流をはかるため、ビューローは南方諸地域にも進出すること、旅行のあっ旋はもちろん、ホテル、食堂車、寝台車などの経営も行ない、旅客への一貫したサービスを提供することを理想とした。」
  • 「東亜交通公社」の発足(84-85頁)
    • 「戦時下に観光事業は成立しないとあって、昭和17年11月鉄道省はの国際観光局が廃止された。続いて昭和18年12月1日、(財)国際観光協会も東亜旅行社に合併されることとなった。同時にわが社の名称も「東亜旅行社」から「東亜交通公社」と改名された。東亜旅行社の「旅行」などという名称は、時局にふさわしくないという意見が当時の軍部を中心に強かったためである。
    • 「東亜交通公社は、大東亜共栄圏建設という国策の線に沿い、損得は二の次、遊覧旅行のごときは顧みないと、旅行思想よりの脱皮と公益性を説いている。旅行ではなく東亜の交通を取扱うのだというところから「公社」となって、「東亜交通公社」の名前が生まれたのである。」
    • 「新発足の東亜交通公社は、当時の総裁、大蔵公望の方針により、南方進出と旅館の経営に新たな重点をおくことを再確認し、昭和19年3月8日、その社業運営方針を決めた。同時に機構改正を実施して旅行部を業務部と改め、新たに南方部と旅館部および文化事業局(文化部・弘報部)、調査部を新設した。」
  • 旅行禁止時代 しかし発売額は多額にのぼる(87頁)
    • 「日本軍の敗色が感じられるように昭和19年4月1日から、旅客列車は大幅に削減され、そのうえ、特急、寝台車、食堂車、一等車、展望車などが廃止された。また100キロ以上の旅行には警察署の証明書を必要とするようになり、さらに旅行統制官による許可制が実施されるにいたって、一般の旅行は禁止の状態となった。船舶による旅行についても同様であった。しかし公社では、引き続き入営、勤労奉仕、訓練団や疎開などの公共的輸送を取り扱っていたので、インフレの影響もあったが、18年度発売高2億9949万円、19年度は4月から10月の間だけでも3億6822万円という多額にのぼった。」