長勢了治『シベリア抑留』(新潮選書、2015年)より「第二章 昭和二〇年八月九日、ソ連軍、満洲に侵攻す」(pp.60-107)

『シベリア抑留』の第二章。第二次世界大戦中における日ソ関係、日ソ戦争、樺太・千島への侵攻、引揚げまでが書かれている。

以下、参考になったところなどのメモ

  • ドイツ降伏後、日本が和平交渉の仲介役として選んだのはソ連
    • 仮想敵国のソ連に仲介を依頼するとは面妖な話だが、じつは日本政府首脳や軍部にもソ連共産主義を容認する雰囲気があったのである。たとえば、天皇の側近の木戸幸一でさえ、「共産主義と云うが、今日ではそれほど恐ろしいものではないぞ。世界中が共産主義ではないか」と述べるほどだった(岡部伸『消えたヤルタ密約緊急電』)。木戸の親族には、ハーバード・ノーマンの盟友で共産主義者都留重人もいた。近衛文麿は昭和二〇年二月の上奏文で、「是等軍部内一味の者の核心論の狙いは必すしも共産革命に非すとするも、これを取巻く一部官僚及民間有志(之を右翼というも可、左翼というも可なり、所謂右翼は国体の衣を着けたる共産主義者なり)は意識的に共産革命にまて引きすらんとする意図を包蔵し居り、無知単純なる軍人之に踊らされたりと見て、大過なしと有候」とおのれの不明を自己批判したほど、共産主義が政府中枢と軍部に浸透していたのである。(p.67)
  • 原爆投下命令の後にポツダム宣言発したと著者は主張するが、もし鈴木貫太郎内閣が受諾してたらどうなったんだろーねという話
    • 七月一七日から米ソ三国首脳のポツダム会談が開かれた。この前日、アメリカで初の原爆実験が成功していた。米軍のハンディー参謀副長官は七月二五日、スパーツ陸軍戦略空軍司令官に日本への原爆投下命令を出した。その翌日、二六日にトルーマンチャーチル、蔣介石の連名でポツダム宣言が発せられた。宣言の署名者からスターリンは外されていたのだが、このことが日本に、ソ連による和平仲介の望みを依然として持たせることになり、鈴木貫太郎首相は記者会見でポツダム宣言を「黙殺する」と声明する。これは連合国に「拒否」と解釈された。従来、日本がポツダム宣言を拒否したのでトルーマンは原爆投下を命令したとされてきたが、実はその直前に命令は出されていたのであり、ポツダム宣言は原爆投下を正当化するためにだされたものだった(長谷川毅『暗闘』)(p.69)
  • 玉音放送後の戦い
    • ソ連は…十六日にアントーノフ参謀総長名で「日本の降伏に関する通告は無条件降伏の一般的通告に過ぎない、日本の停戦命令はまだ出ておらず以前として抵抗を続けている」として攻撃作戦の継続を声明した。つまりソ連はヤルタ密約で約束された領土をあくまでも実力で占拠しようとしたのである。大本営は一六日午後四時になって即時停戦命令を出したが、「停戦交渉成立に至る間敵の来攻に方りては止むを得ざる自衛の為の戦闘は之を妨げず」との但し書きがついていたので、ソ連から激しい攻撃を受けていた交戦部隊には抗戦続行を命令したも同然だった。関東軍は一六日の夜の会議で即時停戦を確認し下達した。この時点で関東軍の主力はまだ交戦しておらず、一七〜一八日に当面のソ連軍と交渉して停戦した。しかし交戦中の混乱や通信の途絶などで命令が伝わらず、各地でしばらく交戦を続けた部隊があった。大本営が一切の武力行使を停止させる命令を出したのは一八日である。(pp.76-77)
  • 満洲国の終焉
    • ソ連侵攻後の一二日、関東軍総司令部および満洲国政府機関は、予定通り新京から朝鮮国境に近い通化へ移動していた。日本の敗戦を受けて一七日夜、満洲国の重臣会議が大栗子で開かれ、皇帝溥儀はみずからの退位と満洲国の解散を承認し、翌日、皇帝退位式を行った。満洲国の終焉である。溥儀と満洲国高官は一九日、日本に亡命すべく奉天空港に着いたときソ連軍に拘束されチタに連行された。(p.77)
  • 日ソ戦in樺太
    • ソ連軍で樺太攻略を担当したのは第二極東方面軍第一六軍と北太平洋艦隊である。八月一一日早朝、樺太北部国境付近に駐留していたソ連軍が国境を越えて南下し、古屯付近で日本軍と戦闘は始まった。ソ連軍の攻撃に対して、第五方面軍はソ連軍の北海道侵攻を警戒して第八八師団に自衛戦闘を支持したため激しい戦闘があった。第五方面軍は二〇日になって停戦交渉を命令し、第八八師団は二二日に知取(マカーロフ)で停戦協定を結んだ。ソ連軍は二四日豊原(ユジノサハリンスク)、二五日に大泊(コルサコフ)を占領した。(pp.79-80)
  • 邦人の引揚げ
    • 敗戦時に海外にいた日本軍は三五〇万人、一般法人三一〇万人、合計六六〇万人以上と推定されている。ポツダム協定は、軍人については「日本国軍隊は武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめられるべし」と帰還を定めていたが、民間人については触れられていない。日本外務省は昭和二〇年八月一四日、東郷茂徳外相名で各地に訓令を打電し、「居留民はできる限り定着の方針をとる」と指示していた。これ自体は国際法に則ったものだが、ソ連占領地域や中国などでのソ連兵や現地民からの邦人迫害を知るに及んで、「急速な引揚げ」に方針を転換した。海外からの引揚げ者の輸送計画は、GHQの立案する引揚げ計画およびGHQあて通告に基づく輸送計画によって実施された。その輸送に当ってGHQは各地の連合国軍および各国政府と連絡を取り、軍人の復員と緊急を要する地域の邦人の引揚げを優先し、一般邦人については各国の協定によって順次帰国させることにした。(pp.96-97)
  • 満洲からの引揚げ
    • 満洲に進駐したソ連軍は、在留邦人の保護や引揚げについてはまったく無関心だった。日本政府はGHQ赤十字国際員会を通じて、在留邦人の保護と引揚げを働きかけたが効果がなかった。居留民がソ連軍当時局に陳情しても、「権限外だ」「本国政府に取り次ぐ」と答えるのみだった。
    • やむなく昭和製鋼(鞍山)の「無名の勇者」三人(丸山邦雄、新甫八朗、武藤正道)が昭和二一年二月二六日に決死の脱出行を試み、国府軍と米軍の保護を受けながら仙崎港に到着した。東京では幣原総理に会って引揚げ促進を懇願し、NHKラジオで国民に訴え、GHQに陳情を続けてマッカーサー元帥との会見にも成功した。三人の必至の努力が実り四月一八日、ついに葫蘆島からの引揚げが決定した。
    • ソ連軍が昭和二一年四月に満洲から撤退したあと、それを引き継いだ国民政府の中国東北保安司令官とアメリカ軍代表の間で、日本人の本国送還に関する協定が昭和二一年五月一一日に結ばれた。
    • 国民政府軍が進駐していたのは南満洲までであり、北部満洲と大連地区は中共軍の支配下に置かれていた。アメリカ軍将校が国共両軍を仲介した結果、昭和二一年八月に日本人の送還協定が成立し、日本人の南下が始まった。この地区の引揚げは八月から一〇月までの三ヶ月に限られたものだった。第一期から第四期までの前期引揚げ(昭和二一年五月〜二三年八月)で、約一〇五万人が帰国した。
    • ソ連占領下の関東州(遼東半島)からの帰還は米ソ協定に基づいて平穏に行われ、昭和二一年十二月〜昭和二四年一〇月までに約二二万人が引揚げた。(pp.98-99)