神様になった日 第10話「過ぎ去る日」の感想・レビュー

神様になった日のコンテンツ産業史的意義は「終わった世界(=現実)で生き続ける」こと。
10話からが真骨頂でホスピスケアの苦悩をテーマに取り組んでいくことになります。
ネガティブケイパビリティ。解決しえない問題の中、それでも生きていかねばならない。
月宮あゆシナリオの生霊解決後の奉仕を深めたらサナトリウム物になるよなぁって感じ。
(京アニ版『Kanon』でさらっと片付けられた描写を真剣に掘り下げていくようなノリ)
奇跡が途絶えた後、要介護者となった佐藤ひなをどこまで見捨てずにいられるか。
決して特殊な事例なのではなく子供を産む以上どの家族にも発生する可能性がある問題。

ホスピスケア・ネガティブケイパビリティ・サナトリウム

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  • 奇跡が終わっても生き続けなければならない世界の果て
    • これまでのセカイ系作品は「セカイ」(自分たちだけの関係性)か「世界」(人間社会一般の普遍的な)かという二項対立を提示してきました。本作品の場合はその二項対立を描くことが主眼ではなく(というか対立する葛藤すら無く)、「終わってしまった世界でそれでも生きていく」ことを描き出すことになります。それはすなわち生霊問題後の月宮あゆ智代アフターの再構築とも言えるでしょう。治癒できない不治の病、緩やかに死を待つだけの要介護状態の中でホスピスケアに取り組んでいくことになるのです。
    • 主人公が鈴木央人の導きにより連れ去られた後の佐藤ひなと対峙した時には、もう既に5カ月前後過ぎ去っていました。ブレインチップを除去された佐藤ひなは要介護者となっており、かつての元気な姿はどこにもなく、虚ろな目をして横たわるだけの存在になり果てていました。理性的な思考は殆どできず、ただただ動物的な感情を垂れ流すのみ。主人公のことなど認識できるわけもありません。佐藤ひなは自分に恐ろしいことをしたとして男性一般を極度に恐れるようになっており、主人公のことも拒絶するのでした。
    • 主人公は覚悟をしてきたつもりではありましたが、身障者の現実を前にして心が折れそうになります。主人公に与えられている時間は2週間であり、その中で要介護者となった佐藤ひなの一生に人生を捧げることができるのかを決めねばなりません。どんなに主人公が佐藤ひなに尽くしたとしても、それが報われることはないでしょう。必要とされるのは無償の愛。佐藤ひなが好きだと口にした主人公でしたが、変わり果てた姿になってしまってもその愛情を持ち続けられるか。これまでの鍵作品は、これを記憶リセット問題で扱いどこかファンタジーな出来事として表現してきましたが、『神様になった日』は割と現実に近づけて視聴者を殴りに来ている感じがしますね。(根本的には同じですが表現手段が月宮あゆは生霊だったのに対し佐藤ひなはブレインチップだったりすることなど)。

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