神様になった日 第12話「君が選ぶ日」の感想・レビュー

ポストセカイ系として提示されたのは奇跡も救いも無い残酷な世界でキミと生きること。
「個人の人間関係」or「世界全体の救済」という二項対立から「つらい現実を生きる」に回帰。
A-partでひなが主人公に歩み寄るシーンはAIR観鈴ちんを想起したのは私だけではない筈。
B-partの映画上映会で佐藤ひなが眠ったシーンは死んだのか!?と思ってしまった。
最終的に主人公は「漠然とした生」にサヨナラし「佐藤ひな」に自分の生きる意味を見出す。
自分の人生の使い方を示してくれたという意味で佐藤ひなは神様だったというオチ。

セカイ系の二項対立に対して新たな答えを提示したポストセカイ系の作品

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  • 奇跡も救いも無いセカイ
    • 介護施設への潜入がばれ追放されることになった主人公。最後の時を佐藤ひなと過ごすことになりますが、そこで佐藤ひなは主人公が作った家族カードによって仲間たちのことを徐々に思い出していきます。しかしながら主人公の名前を呼ぶことだけは無くタイムアップ。強制退去となります。最後の見送りで主人公と別れることになった佐藤ひなは突如グズリだし主人公のことを求めます。家族カードの際に主人公のカードを棄てたのは、カードではなく眼の前に本人がいたからだったのでした。主体的意志ではなく生命に備わっている本能的な衝動!佐藤ひなは介護士の手を抜け出し主人公を求めて歩き出します。そのシーンはまさにAIR観鈴ちんを想起させる演出。もうゴールしてもいいよね!鍵おじさん/鍵ジジイたちはここで佐藤ひなが死んだと思ったでしょう。また映画がクランクアップし、上映会が行われた際、佐藤ひなの表情が失われていたのを見た時にも佐藤ひな死んだなと思ったでしょう。しかし、本作品が提示したのは救いも奇跡も無いセカイで生きること、佐藤ひなは死なず、そのままの佐藤ひなと生き続けるのです。
    • また作中の映画の題材が従来のセカイ系となっており、個人の人間関係を優先してセカイを滅ぼすエンドを迎えていることも注目ポイントでしょう(2019年に頂点を迎えた『天気の子』などが類型)。すなわち従来のセカイ系表現が作中劇としてフィクションの対象となっているのですね。そしてラストは自分の生きる意味を示す存在として佐藤ひなが神様だったというオチ。これまで主人公はただ漠然と生きるだけであり、自分の進路選択も好きな女と一緒の大学に行きたいというものでした。しかし佐藤ひなにより自分の人生に意義を見出してハッピーエンドとなります。「自分の生きる意味」とか「自分の命の使い方」とか云々は「CLANNADは人生」の頃から散々扱われていたテーマでした。これに対し「奇跡も救いも無い」という中でも人生を肯定して生きようとすることを『神様になった日』は示すことができたのではないでしょうか。Key作品が奇跡や救いを否定したことは作品史の中でも重大な出来事かもしれない。

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